――染井吉野の「染井」は血に染まった霊園の井戸水が、血の池地獄とつながっていて薄い赤色だったから、だとか。
――ペンギンは魚を食っているのだから、すり潰して揚げたら実質的にはさつま揚げなのではないか、だとか。
妖怪も人間も入り交じり、酒を飲んでは酔いに任せて思いつくままにしょうもない与太話をして、神社の宴会もグダグダが極まり、さすがに更けた頃合いのことである。
春もまだ浅く、空気が冷え切った三月の未明。
日が昇る前の一番暗い頃合いに、酔客のほとんどは潰れて宴会場の広間で雑魚寝を決め込んでいるが、霧雨魔理沙は不意に目を覚ましてしまった。
早めに潰れたのが良くなかったのかもしれない。
妖怪たちの話す与太話は人間には気味の悪い怪談、あるいは猟奇的なナンセンスであるのだから、いまさら怖がりはしないが、変な夢ぐらいは見る。
実際、さっき見た夢では、卵からかえったばかりのひよこが悪の科学者によって粉砕機に掛けられるところで、ふわふわ綿毛ちゃんの甲高い悲鳴で思わず目が覚めたのだった。
夢の中でのこととはいえ、どうにも寝覚めが悪い。
燭台の灯はすでに消え、破れ障子の隙間からいささか傾いだ月が見える。
適当に置きっぱなしになっていた湯飲みに、水差しから冷や水を注げばほんのり酒臭い。やれやれと一気に飲み下し、二杯目を飲もうとしていると、
――何か、遠くから聞こえてきた。
反射的に息を殺す。
酔客の寝息に混じって、堅いものと堅いものがこすれ合う、シャッ、シャッという音。
そう、言うなれば砥石で刃物を研ぐような……。
(……誰だ?)
霊夢か? と思えば、家主はすぐ隣でぐうすかと寝息を立てていた。布団代わりのドテラを掛け直してやる。
刃物を使う者といえば妖夢や咲夜、椛、ネムノらが思いつくが、今日の宴会には来ていないはずだった。
まあ、見てみた方が早いな、と思い直して、手元の水を飲み干し、立つ。
こんな貧乏神社に泥棒とも思えないが、用心のために八卦炉が手元にあることを確認した。
(さすがにこんな夜更けにマスタースパークぶっ放したら怒られそうだがな……)
だとしても、怪しい物音は確かめたくなるのが霧雨魔理沙であった。
そっと廊下に出て見れば、月の明かりが差す廊下はごろごろと酒瓶やら何やら転がったままであった。つまずかないようにすり足で歩いた。
果たして、台所には薄明かりが差していた。そうっとのぞき込み、声を掛けた。
「おい、何してんだ」
振り返ったのは、見覚えのある金髪の女――八雲紫であった。
「おはようございます」
にこやかに、そして胡散臭く笑む。手には、音に聞いた通りの包丁があった。彼女のすぐ前には砥石もある。
「まだ夜明け前だぜ。なんで他人ん家で包丁研いでんだ」
「いえ、ちょっと気になってしまって」
「何が?」
「ペンギン・ナゲットの味が」
その言葉に魔理沙は思わず顔をしかめた。飲み会の与太話を真に受けるなんて。
自分はその生き物を外の世界の図鑑でしか見たことがないが、よちよち歩きのいとけない鳥なのだと知ってはいる。
妖怪というのはどうにも人でなしとしか言いようがない。
「あんなに可愛い生き物を食べるなんて悪趣味だぜ」
「そうかしら? 南極産のジビエだと思えば普通だわ」
「昔読んだ本では、脂くさくて不味いと読んだことがあるがな」
「それは昔の日本人が油に慣れていなかったからなのではないかと。カラッと揚げ物にすればたいていの肉は美味しくいただけますわ」
「外の世界では法律で禁止されてるって聞いたぜ」
「ここは幻想郷ですわ。未成年飲酒の常習犯さん」
紫の言葉に、魔理沙は小さくかぶりを振って、肩をすくめた。なんだかしょうもない。
「まあ、お前がどうしてもって言うなら止めないけどな。お裾分けはごめんだぜ」
ところで、と魔理沙は話題を変えることにした。
ぐるりと台所を見回すが、すっきりと片付けられており、やはり対象物はいないようだ。
「どうやってペンギンを捕まえるつもりなんだ? 南極はまだ幻想入りしてないんだろ?」
「そこはそれ、スキマの力を使えばどうとでも」
言葉とともに、紫は何もない空間に人差し指を滑らせる。
――と。
空間に裂け目が現れ、気味の悪い深淵がこちらをのぞき込んでくる。両端をリボンで愛らしく結んで飾り付けてあったところで、不気味であることには変わりがない。
「おお、寒い。はやく見つけないと」
紫はそう言いながら、手を差し入れてごそごそやっている。
魔理沙は大きくため息をついた。あの向こうは南極につながっているのだろう。
(あんな、非効率なやり方で捕まるものだろうか?)
いや、別に応援する気はないし、逆にやめて欲しいと思っているぐらいなのだから、どうなろうと知ったことではない。
ともあれ、この賢すぎる馬鹿は放っておいてよさそうだ。
紫は幻想郷の賢者という異名を持つはずなのだが、賢すぎるとどうにも他者の理解が追いつかないような奇行に走るようだ。
魔理沙は寝直そうかと思ったが、眠気はすでに消えてしまっている。
空の端、山際のあたりはうっすらと明るくなり始めているように思われた。
縁側に座りこんで、波打ったガラス窓越しにぼうっと外を見る。
博麗神社は桜の名所として名高いが、今はまだかろうじてつぼみが見えるか見えないか、という頃合いである。山桜の咲き始めは染井吉野よりも遅いのだ。
(幻想郷じゃあ、まだしばらく血の池地獄につながった桜は咲かないだろうな)
とりとめもない思考が浮かび、なんとはなしに安堵する気持ちが生まれた。
外の世界で滅んでしまったもの、あるいは、外の世界で人間に忘れ去られ幻想となった物事などが、まれに幻想郷に流れ着くことがある。
伝え聞く話によれば、外の世界でも花見はいまだ人気のコンテンツらしいから、染井吉野は当分その心配はなさそうだ。
振り返って広間の様子をうかがうが、誰も起きてくる気配がない。
魔理沙はなんとなくさみしくなって、家主のすぐ隣に寝転がった。さっき掛けてやったドテラを少し引っ張って分けてもらうことにする。
「……うーん」
霊夢は寝ぼけたままで、かすかにうめき声を出すと、ドテラを強く引っ張って奪い返した。そのまま寝返りを打って自分の身体の下に敷き、容易に奪えないようにする。
(寝ていても霊夢は霊夢だぜ、まったく)
この傍若無人ぶりには苦笑するしかない。
他に布団を奪えそうな奴がいないか、広間の中を見回した。
潰れているのは、天狗に妖精、それから鬼……このあたりは手を出さない方がよさそうだ。
河童あたりは悪くないかもしれないな、と思い、それから得体の知れない小さな機械が落ちているのに気づく。
手に取ってみると、まだ電源が入ったままだった。
レトロな薄灰色の筐体は、かすかに丸みを帯びた長方形をしており、鈍い黄緑色の液晶画面が上部にはめ込まれていた。モノクロームの画面はゆっくりと点滅していた。
液晶下部の赤いボタンを押した。
――なにか ききたいことは ありますか? Bボタン を おして しゃべってね。
画面にはそのように表示された。河童のおもちゃであろう。並の人間なら下手にいじっては痛い目に合うのがオチだ。
だが、
(あいにく、普通の人間じゃなくて普通の魔法使いなんでね)
魔理沙としては使う気満々である。
まずは、小さく声に出して尋ねる。
「ペンギン・ナゲットについて教えてくれ」
そして、回答は容易に得られた。つらつらと文字が流れる。
――日本冷凍(株)のチキンナゲットの名称。
――あるいは、海苔で作ったペンギンの形のおにぎりを指す言葉。
――もしくはペンギンを模した形をした鶏肉のナゲットのことを指す。主に子供向けの食べ物として、ペンギンの形に加工された鶏肉のフライドナゲット。ただし、ペンギン自体が食材として使われるわけではなく、あくまでペンギンの形をした食品という意味。
「……なんだこりゃ?」
魔理沙はいぶかしく思った。そこに写っているのは、聞き覚えのない単語ばかりである。
とりあえず目の前で眠り込んでいる製作者をたたき起こすことにする。
「起きろよ、にとり~! 起きろってば!」
ゆさゆさと肩を揺らす。ほどなくして河童はうーんと伸びをした。
眠い目をこすりながら、こちらをいぶかしげに見てくる。
「なあ、コレって何なんだ? よく分からないんだが」
「ん~? これは、ハルシネーション投影機だよ」
「なんだそりゃ?」
「えーと、外の世界には人工知能っていうのがあって……」
そこから先の説明は魔理沙には今ひとつよく分からなかったが、要するに外の世界のヘンテコな式が見た幻覚だけがすり抜けて、この機械に映し出されてくる、ということのようだった。
「つまりこれは式がついた嘘ってことか?」
「まあそれを言い始めたら、私たちも、お前さんの八卦炉もみんな嘘ってことになるんだが」
河童は苦笑した。
「じゃあ本当なのか?」
「いちいち白黒つけなくてもいいのが幻想だろ? 用はそれだけかい? じゃ、おやすみ」
にとりはそれだけ言って、また横になってまぶたを閉じた。
魔理沙はしげしげと画面の中の文章を見つめ、小さく声に出して三回読んでもみたが、やっぱり意味が分からなかった。
式のことを聞くとしたら、やっぱり紫に聞くのが一番だ。
「おーい、ちょっと見てくれ」
台所に行き、素手でペンギンを捕まえようと奮闘している紫に尋ねる。台所の様子を見る限り、幸い、まだ一匹も犠牲にはなっていないようだった。
ずいと目の前に液晶画面を押しつける。
「これって一体どういうことなんだ?」
「ん~……」
紫は何度か目をしばたたかせると、わずかに小首をかしげ、そして音もなく機械をスキマに滑り込ませた。
「あっ、何するんだ!」
「こちらの機械は没収ですわ。情報だけとはいえ、勝手に結界に穴を開けていますので」
「せっかく面白かったのに……」
「まあでも、今日の朝ご飯の献立は決まりましたわ」
紫はそう言うと、スキマを消して他人の台所を物色し始めた。
「まずはお米を炊いて……それから、ええと、電子レンジはないから代わりに……」
魔理沙の抗議はまったく意に介していないようだった。
「まあいいや、うまいもの作るなら分けてくれよ。情報料代わりに」
「期待してくださって結構ですわ」
自信たっぷりに笑ってみせる。
――かくして。
真っ白く輝く朝日の差してくる中、飲み助たちの二日酔いに効く朝食が用意されたのだった。
ちゃぶ台の上には、まだほんのりと温もりの残る塩おにぎり。丁寧に海苔やコーン、魚肉ソーセージなどを使って愛らしいペンギンの顔が形作られている。
また、そのすぐ隣に置かれているチキンナゲットは、丸っこいペンギンの形をしている。明らかに冷凍食品を温めたものと思われるが、工場のない幻想郷では贅沢品だ。
申し訳程度にお麩の浮かんだ味噌汁と、香の物、そして温かなほうじ茶が添えられている。
「あんた、案外、器用なのね」
家主は勝手に食材を使われたことを怒るでもなく、感心したように言った。
「いいヒントがありましたもので」
紫はそう言うと、魔理沙に向かって小さく目配せをしてみせたのだった。