【第百四十一季 四月五日】
緑の色彩が目の前で爆ぜた。モノクロの鳥居の下に色が満ちる。頬を撫で駆け抜けたその感触をこそ春の香りと呼ぶのだということに、ユイマンの両手に握られた植物の束を視認して初めて気付いた。一纏めに握り込まれたてんでばらばらの植物はそれぞれが思い思いの花を咲かせ、宝石のように幾度もその装いを変化させながら輝いていた。視覚と嗅覚を絡め取る情報の奔流に呑まれ、石像のように黙りこくったまま突っ立っている私に、彼女はその花束を差し出した。
「お土産、阿梨夜に。」
半ば強引に私の掌を持ち上げてそれを握らせ、ぱたぱたと軽い足音を立てて彼女は私の社の方へ去っていく。いつもふらりと遊びにやって来て、鳥居の下で挨拶を交わすが早いか社に上がり込み、勝手に適当な茶葉を見繕って湯を沸かし、彼女が持ってきたお茶請け──大抵はそこらで射ったシカである──で飽きるまでお喋りをしてからそのまま眠ってしまうのだ。全く普段の通りで、戸惑うことなど何も無い。それでも、既に摘み取られた筈のその花々は私の掌を通じて足元まで根を伸ばし、私の身体をその場に縛り付けた。呆然と見下ろした先で透き通った空色のネモフィラと目が合った。
彼らは柔らかな掌をそっとこちらへ向けて差し出した。少し青臭くて甘ったるい香りがじりじりと燻って脳を焼く。大嫌いだ、と咄嗟に思った。自分の季節が訪れたことを誇らしげに胸を張るその花弁が。太陽に手を伸ばすその葉が。あらゆる生命を誘惑し優しく抱き寄せるその香りが。変化の底に身を委ね儚く散りゆくその生き様が。二度と見たくないとさえ思っていた。今すぐにでも生命を拒絶した社の砂利の上に踏み躙って、醜く殺してしまえと脳が叫んでいた。それでも私の身体は動かなかった。ただそっと、茎の折れぬように静かに包み込んだ両の掌を釘付けにされたままで、風も無いのに揺れる花弁に見蕩れていた。思い出したくもない忌まわしき記憶を運んできた彼らを、愛おしいとなんて思いたくなかった。しかしそれらは同時に社の外でユイマンが見てきた全てでもあった。彼女が手ずからしたためたその絵葉書を破り捨てることなど私には出来ないのだ。
ほんの一瞬だけ、そうして花束を眺めていただけのつもりだった。私の社に花瓶などあるのだろうか、と思案しながら左の脚を引いて踵を返した。その先で、鼻先さえ触れんばかりの至近距離でユイマンと視線がぶつかった。思わず軽く身を引く。彼女はそれを追いかけるかのように黒曜石を嵌め込んだ大きな瞳をこちらへ向け、訝しげに首を傾げて私が口を開くのを待っていた。やがて痺れを切らしたとでも言うように一言だけ呟いた。
「お湯、沸いちゃうよ?」
「ええ、今戻る。」
「何考えてたの?」
足先私にはもう残されていないけれど。仮面の下に刻まれた傷はどうしようもなく真実で、蛇に差し出しても食べてくれやしない。
春の香りが私の背中を押した。目が痛くなるほどの若々しい緑の極彩色。そう、これからきっとユイマンが一輪花を持ち帰る度に、一つ石を持ち帰る度に、竪穴の四季彩は“真実”に塗り替えられていく。それだけで良いのだ。世界はただ彼女の為だけに正しくあれば良い。私ばかりが都合の悪い過去を蛇に食わせて都合良く傷を癒したいとは思わない。彼女の為なら何とだって共に生きてやる。その勇気だけは今なら持ち合わせている。
スズランが一輪、花の重みに耐えかねて私の手の中で曲がっていた。それをそっと直してやった折、握り締めていた桜の花弁は満足が行ったとでも言うようにするりと私の指先をすり抜けて落ちた。モノクロの砂利の海に呑まれて彼は見えなくなった。社を満たした爆発の残滓は大気の中に色を落として、勝手口の戸を引くユイマンの背中が、その時少しだけ“真実”になったような気がした。浅間浄穢山は再び歩いてゆく。諦観の中に置き去りにされた私の掌を半ば強引に持ち上げて。
