「見て、蓮子」
初夏の午後、古書特有の黴の匂いが、喫茶店にかすかに漂った。我が相棒のマエリベリー・ハーンが鞄から取り出したのは、どこかの蚤の市で手に入れたという、擦り切れた辞書のような古書だった。しかしその薄汚れた布張りの表紙には、書名もない。
「メリー、また怪しげなものを……」
彼女が妙な物品を持ってくるのは、今に始まったことではない。石の釣り針、遊色を持った玉。きっと今回もその類だろう。私は眉をひそめつつも、彼女の手からその本を受け取った。
この科学世紀において、わざわざ紙媒体で本を作る者はよほどの酔狂である。だが指先に残るざらつきは、世紀を越えて重ねられた歳月を物語っていた。私は黄ばみきった硬い頁をはたはたとめくる。
確かに奇妙な一冊だった。この本には書名だけでなく、序文も、説明も、何もない。ただ、あいうえお順に並んだ単語だけが、ただ延々と羅列されているのだった。辞書のようだが、意味の一つも書いていない。
「これ、落丁本じゃないの?」
「そう思ったんだけどね。奥付も見て」
崩れそうな裏表紙をめくると、奥付には出版社らしき名前と、その住所だけが記してあった。
三秘堂。
出版元にしては、聞いたことのない名前だ。そもそも、発行日さえ書いていない。古の自費出版か、もしくは好事家の戯れか。
「ね、変でしょ? この住所、少し調べてみたんだけどね」
メリーはおもむろに万年筆から極薄の有機EL膜を引き出す。最新技術を古典的筆記具と融合させる意味に一瞬悩むが、それがジャパンテクノロジーだ。
そんな私の逡巡も知らずに、薄膜はするりと机の上に広がって、酉京都の地図を映し出した。彼女はそのまま地図をスワイプして、ある一点でスクロールを止める。その指先には、英字のTを逆さまにしたような地図記号が広がっていた。
「……ほら、墓場なのよ」
少し、背筋が粟立つ気がした。微妙にフリーズしてしまった私に、メリーが問うてくる。
「出版社の跡地が墓場になるかしら?」
それはそうだ。墓地の管理は厳密なものだし、そんなに新しく建設されるようなものでもないだろう。私は灰色の脳細胞をフル回転させる。
「……私が思うに、これは多分逆ね」
「逆?」
「うん、つまり、幽霊が出版しているのよ」
苦し紛れで思いついた言葉だったが、メリーは闇夜の猫のように瞳孔を輝かせた。ふとした隙に燃え盛る、好奇心と探究心の炎。彼女の瞳の向こうに見えているのが天国か地獄かはともかくとして、こうなった時のメリーは歯止めが効かない。
「じゃあじゃあ、やっぱりそういうことね?」
この流れに乗っかっておかないと、彼女は一人で探索に行ってしまうだろう。下手をしてまた行方不明になられても困る。七夕坂の一件は、私もそれなりに肝を冷やしたのだから。結局、勢いで応じざるを得ない。
「そう……そういうことよ!」
全てのオカルトは、勢いで打ち消すことができる。つまり気味の悪さには軽率さをぶつけるのだ。恐怖にさえ勝ってしまえば、世の怪奇は全て我らが解くべき不思議。すなわち、探索対象である。半ばヤケクソの勢いで、私は秘封倶楽部の活動開始を告げた。
――と、ここまでが数刻前の話である。
すっかり薄暗くなった件の墓地で、私とメリーは立ち尽くしていた。西の空には沈みかけた半月。
掌の中で、古書の表紙がぼうと青い燐光を放っている。燃えているわけではない。本全体がうっすらと発光しながら、宵闇に揺らいでいた。
「まさか本当に怪綺の品だったとはね」
とは言え、特に何かが起こっているわけでもなかった。旧市街の外れに、生温い風が吹き抜けていく。ゆらゆらと本を包む青光は、まるで誘蛾灯だ。
「もう少し明るかったら、ちょうどいいランタンになるかな?」
嘯きながら、静かに燃える本の頁を私は何気なく開く。そのページの冒頭には「庭園」とあった。
その単語を視認した途端、立ち眩みが私を襲った。景色が煙のように揺らぎ、一瞬にして溶ける。私は思わずメリーの腕を握り締めた。
しばしの目眩の後、私たちの視界に映っていたのは、どこかの洋館の裏手にありそうな広大な回遊式庭園だった。
「……蓮子、ちょっと痛い」
メリーの声で我に返る。彼女の白い肌に、私の爪が食い込んでいた。
「あっ、ごめん。ちょっと驚いて」
「ううん、大丈夫。それより見て!」
そう言ってメリーが指差した先には、濃紅色や山吹色の薔薇がブーケのように咲き誇っていた。香水よりもずっと心地好い、甘い香り。とても幻覚とは思えない。けれど当然、私たちの知る京都にこんな場所は存在しない。
私は反射的に、蓮台野での結界暴きを思い出した。確かあの時は、墓石が入口になっていた。今回の鍵は、この古書なのだろうか。
花の匂いにむせ返りそうになりながら、周囲を確認する。整然と並べられた煉瓦が、左右対称の古風な洋庭を形作っていた。吹き渡る風の温度は、先程までと変わらずぬるいままだ。
「なるほど、これは開いた頁のイメージを見せる辞書……そんなところかしら。レイテンシー博士?」
そう呟いて、メリーの横顔に視線をやる。眼を輝かせて微笑み返す相棒が、次の所作を促していた。私もにやりと笑い、もう一度辞書を開く。
次に目に入った文字は、「鳥」だった。
がぁと。頭上から鳴き声が禍々しく響いた。
仰ぎ見ると、薄暗い空に、何羽もの巨鳥が舞っている。尾が三つに分かれ、翼は墨をこぼしたような黒。そして、胸元には双眸のような不気味な模様が浮かんでいた。見れば、周囲にも数え切れないような鳥、鳥、鳥。小さなセキレイから、極色彩のオウムまで。
一羽なら可愛げもあるのだろうが、これだけ舞っているとヒッチコックの「鳥」のようで、少し空恐ろしくなる。あの映画のラストシーンは、どうなってしまったんだっけ。
「こんなの、何でもアリじゃない。でたらめだわ」
「でも蓮子。夢の世界は、そういうものよ」
私の悪態に、そうメリーは返してきた。さも当然と言いたげなその顔に対して、少しの対抗意識が湧き出す。
「ふうん……言うじゃない。じゃあ、もう一回だけよ」
私はロシアンルーレットを回すかのように、辞書のページをパタパタとめくった。何回かその動作を繰り返してから、指の動きを止める。
そうして勿体ぶりながら、開いた頁を覗き込む。
「混乱」
その二文字が、眼神経を透徹して脳髄に飛び込んできた。
ぐるんと、感覚がでんぐり返った。周囲で飛んでいた無数の鳥と、開花していた無数の花が、出来の悪いAI画像のように溶けた。
見れば、その花弁は薔薇ではない。釣鐘状の濃い藍色の花弁は、ベラドンナに似ていた。煉瓦の隙間から伸びるのは、紅い曼珠沙華の葬列。毒性の強いアルカロイドを含む花ばかりが、鳥類のシルエットを模しながら羽ばたいている。
あ、悪い夢だと、直感が囁いた。
そう感じた途端、宙を舞っていた花烏が、溶けるように形を変えながら私の眼の前に降り立った。瞬きする間に、その駆体は膨らみ、幅広帽をかぶった黒マント姿の怪人に変わった。
地に降りた怪人は、私を翼で威嚇するように、マントを大きく広げた。そうして、幅広帽を親指でクイと上げる。
帽子の下から私を睨む顔は、それこそ私にそっくりだった。
「ようこそ、私」
妖鳥に似た私が口を開く。がぁがぁと、周囲を舞っている他の烏どもがうるさい。傍らにいるメリーを自分の背後に隠しながら、私は私を睨み返した。
「誰、あなた?」
「つれないわね。私こそ、あなた“だった”ものよ。選ばれなかった未来の残骸。毎夜のように見るのに、起きたときにはいつも胡乱で、やがて完全に忘却される夢」
“わたし”の言葉と同時に、鳥たちが一斉に囀り始めた。けれど、それは音ではなく、視覚だった。
図書館から借りっぱなしの本、逃してしまった約束の行く末、告げられなかった言葉の漂着先。そんな未来のフラッシュバックが全て同時に再生されていく。
「あなたには、そういうもの全てを、もう一度“視て”欲しいの。そうしたら、わたしたちはまた、世界に在ることができるから」
気付けば、夜空には月が幾つも浮かんでいる。三日月、半月、満月、十六夜月、5つ、6つ。
これは悪夢だ。
そう分かっていても、余りに多くの情報が飛び込んできて、私の眼は破裂しそうだった。
「蓮子、目を閉じて!」
不意に隣からメリーの叫び声が聞こえた。
「ここは可能性の庭。見れば見る程、観測が重畳して正体不明になるわ!」
私は反射的に瞼のシャッターを下ろす。世界が真っ暗に沈み、周囲で鳴き叫ぶ鳥たちの声だけが響き渡る。
「あら、どうして視ないの? 視れないあなたに、どんな存在意義があるの?」
もうひとりの私が囁いてくる。私は眼を開けることができない。何も見えない。それがこんなにも恐ろしいことだったとは知らなかった。幼子のように小さく身震いする。
その時、強く手が握られた。
細く、尖った、けれど力強い指先。肌に触れているのは、マエリベリー・ハーンの指だ。私の知っている、比類なき相棒。
だから私は握られた手を、強く握り返す。
「蓮子、こっち! 結界の隙間から外に出るわ!」
私は掌の中の、ただ一つ確かなものを手がかりに、転がるように走った。
はあ、はあと。小さく息が上がっていた。
気付けば、墓地の前の国道に二人で突っ立っていた。握り締めていた掌に、メリーの小さな掌が重なっている。汗ばんだ掌に、私の爪が半月みたいに食い込んでいた。
「あっ、ごめん」
「平気よ。蓮子も眼、大丈夫?」
そう言ってメリーは、私の指を優しく撫でた。
少し世界が揺らいでいたが、私の両目はいつも通りだった。既に月は沈んでおり、一等星を結んだ大三角がくっきりと世界に輝いている。
路上にへたり込んだ私の顔を、メリーが覗き込んできた。
「ちょっと災難だったね。その本、今度は私が開いてみようか?」
見れば、手中の青い光は喪われ、辞書は再び古ぼけた紙束に戻っていた。しばし、私は逡巡したが。もう一度頁をめくる余力は残っていなかった。
「……今日はもうやめとく。また悪夢になるといけないもの」
「そうね。私もそう思う」
メリーは少しだけ寂しげな笑みを浮かべたが、素直に頷き、バッグに異形の辞書をしまい込んだ。
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後日、SNSでちょっとしたオカルトがネットニュースになった。
彼女たちが夢を見たと思っていたあの時、同じ異界を目撃した住人が複数いたのだという。中には、怪鳥の鳴き声や、少女の叫び声を聞いた者もいたのだとか。
――それはつまり、あれが夢ではなく、現実だったということだ。
黴臭い本に栞を挟み終えたマエリベリー・ハーンは、それを無造作に机上に置いた。
彼女には、その書影が綺麗に見えていない。幾重にも折り畳まれた結界が頁の隙間に積層して、その姿を揺らがせていた。
観測された頁の単語から、観測者の思考を反映して、範囲内の世界を上書きしようとするアーティクル。逆に、見ようとしなければ、何も起こらない。観測者がいてこそ、初めて機能する箱庭の結界。
「……さながら、ラプラスのお神籤といった所かしら」
そう、彼女は独り言ちる。一定の区域でしか機能しないのは、一種のセーフティのようなものか。三回引かないと出られないという仕組みも、古典的だが意地が悪い。
どんな魔法使いがこんなものを作ったのか。それとも、異界から漂着した呪いの品なのか。皆目検討はつかなかったが、携わった者はさぞ性格の悪い人間か、性格の良い妖怪に違いない。つまり、どの道ろくでもないやつだ。
時折、世界にはこういった不思議が無造作に転がっている。たとえば高千穂の天逆鉾のように。だが、それらが適切に使われることはほとんどない。何故なら正しい使い方が伝わっていないからだ。
でも彼女には、その鍵の開け方が分かる。そして、奇妙な眼を持った、観測に最適な親友がいる。そこまで揃っているなら、共に覗き込むのが道理といったものだろう。
七曜舎のケーキセット券が多分まだ残っていたはずだ。それで蓮子には機嫌をなおしてもらおう。
一人で楽しむ不思議も悪くないけど、やっぱり二人で味わった方が美味しいもの。
本には、三枚の栞が挟まれていた。いざとなったら、そのページを彼女はめくるだろう。無論、その時は今ではない。
「また夢を現に変えましょうね。蓮子」
呟いて、メリーは書棚の奥に古書をしまい込んだ。簡単に頁が開いてしまわないように、丁寧に油紙に封じて。
(是にて頁を閉じること。けしてもう一度開かぬこと)