秦こころが何か愉快な夢から目を覚ますと、自分が異界に迷い込んでいることに気付いた。いやに背中が痛む。石灰を固めたような硬い場所に寝ていたせいと気づいて、こころは背中をさすりながら身を起こした。どうやら街らしい。寝ていた場所は道路のようで、人間らしき者たちが足早に歩いている。道路端には建物が建ち並んでいるあたりは人間の里のようだが、しかし、何もかもが幻想郷のそれとは異質だ。
第一には、闇を制するような煌々とした街明かりだ。人間の里でも街灯は見かけるものの、こんなに明るく、数多いわけではない。こうも明るいと、妖怪にとっては居心地悪いことこの上ない。きっと、この世界に妖怪の居場所はないのだろう。こころは直観的に理解した。
第二に、その灯に照らされる街並みが全く異なる。塔のような高さの建物が建ち並んでいるし、その色も、形も、何もかもが違う。霊夢から聞いた畜生界の様子と似ているようにも思うが、彼女から聞いたドロドロと欲望渦巻くような雰囲気と比べると、どこか乾いた感じがする。
最後に、街並みを歩く人々の装いだ。里の人間たちは和装を好むが、こころの目に映る人間たちは洋装に身を包んでいる。また、全体に皆小綺麗で、周囲への関心を持たずに歩いているように見えた。
秦こころは面霊気、偉大なる聖徳王が生み出した面が付喪神と化した存在である。こんなときにすべきことは決まっている。すなわち、困惑を表す面を身につけること。こころが右手へ僅かに力を込めると、そこにしかるべき面が――現れなかった。
「あれ?」
無くすはずがない。こころは身の回りを確認したが、あるはずの面が一つも見つからなかった。こころは無表情だが、無感情ではない。ただ、面を通じてしか感情表現ができないだけだ。感情が形を持てぬまま内側で暴れ、噴き出すように全身から汗が滲み始めた。秋めいた風が吹き、こころは一つ身震いをした。
「そこの人。私の面を知りませんか」
通りすがりの人々に声を掛けるが、こころに視線を向けようとする人すら稀だった。そこに誰かがいると気付いてすらいないように。どうしてこんなことに。直近の記憶は、花見の宴だったはずだ。夜桜の下で妖怪たちや、妖怪じみた人間たちと酒を酌み交わし、興が乗って舞いを披露していたはず。心身疲れ果てたこころは、辿り着いた橋のたもとにへたり込んでしまった。それが、どうしてこんな冷たい場所で身を縮めていなければならないのか。
いつまでそうしていたのだろう。こころは、背後から陽気な歌声が近付いてくるのに気付いた。
「ひっふっうっくらーぶは、よるーのーまちーゆーくー♪」
「ちょっと、蓮子。呑みすぎよ。本気でもう一軒行くつもり?」
「あら、メリー。あなたのパートナーは一度口にした言葉を覆すようなあまっちょろい奴だったかしら? 本気も本気よ。まじもまじ」
酔客は他にも大勢いたけれど、二人の声の調子にどこか懐かしい響きを感じて、こころはその声の方へと振り返った。
「だいいち、期末試験が終わったら木屋町の酒場で旧型酒を浴びるほど呑もうって言い出したのはメリーのほうでしょ。私としては、そんな親友の心意気に応えないわけにはいかないってわけ! たとえ火の中水の……」
二人組の一方、黒いスカートに白いブラウスを着た少女が突然黙り込んだ。こころは、その少女と視線が合ったような気がして、声を出そうとした。この奇妙で不愉快な異界に迷い込んで以来、自分に関心を示した初めての人に違いない。そんな期待は、彼女の顔に浮かぶ重大な危険の色を見いだすことで裏切られた。
「ねえ、蓮子。まさか」
紫色のワンピースを着た少女の表情が歪む。蓮子と呼ばれた少女は、何も言わずにこころの方へと駆けだして、脇目も振らず川の方へ。こころは、目の前を通り過ぎた少女を唖然として見送る。
先程の綺麗な歌声とは似ても似つかぬ音と共に、蓮子の口から川への虹が架かった。
「あ、あの、大丈夫ですか」
こころは声を掛けながら背中をさすってやる。
「うええ……。ありがとう。心優しい人……」
「すみませーん。ご迷惑お掛けしちゃって」
状況に気付いたもう一方、メリーと呼ばれた少女が、謝意を口にしながら近付いてきた。メリーはこころの手を蓮子からやんわりと引き離すと、蓮子の手を引いて立たせた。
「落ち着いた?」
「はい」
「もう呑みすぎない?」
「はい」
「この人にお礼は言った?」
「はい……」
すっかりしょげ込んでしまった蓮子に満足した様子のメリーは、改めてこころに向き直った。
「ほんと、なんとお礼をしたらいいか……」
一般的な社交辞令が交わされ始める。こころもそれに応じようとして、思いとどまった。ここで彼女たちと別れたら、また元の木阿弥になってしまう。今まで出会った人たちの中で、彼女たちほど自分を助けてくれそうな人はいないじゃないか。
「あの、困ってるんです。助けてくれませんか。……お礼に」
†
まずは話を聞こうという二人に連れられて、こころは一軒の酒場に入った。二階建ての凝った作りで、中央の吹き抜けに大型の水槽が設置されている。入店したこころは、その水槽の中の光景にしばらく気を取られていたが、やがてついと視線を逸らし、目の前の二人に意識を向けた。二階席にある四人がけボックス席の一つ。店員が置いていったグラスに視線を向けて蓮子が言う。先ほどと違って、多少余裕の感じられる態度だ。
「これはおごりね」
蓮子が差し出してきたグラスを手に取る。
「乾杯」
グラスが交わされる。飲み物を一口飲んだこころは、目を丸くした。
「はじける!?」
口を押さえたこころを見て、二人は笑った。そして、メリーが声を潜めて言う。
「炭酸だよ。……やっぱりあなた、よその人でしょ。どこから来たの」
こころとて、それなりに力ある幻想郷の妖怪である。幻想郷の外で、みだりに幻想郷のことを口外すべきでない程度のことは認識している。とはいえ、自分が異質なものであると見通している相手に対してなおシラを切り続けることができないほどには実直な妖怪でもあった。観念し、全てを打ち明けるがよかろう。覚悟を固めたこころは、今までの経緯を全て話すことにした。
†
話し終えたこころは背もたれに身を預けた。蓮子の質問責めはペースが速く、ただでさえくたびれていたこころにとっては負担が大きかったのだ。その様子を見て取ったメリーは、二人で相談するという名目で会話を打ち切り、蓮子との会話を始めた。
「興味深いわね。結界は外部から入ることができるように、内部から出ることも可能ということ? いや、私たちの知る結界の向こう側とこの子のいた世界が同じであることは保証されていないか」
「合理的推論としてはそうなるわね。でも、私の意見では、その区別に意味はないと思う」
「私の学説が間違ってるって話? 反論はあるけど……まあいいわ。きっと、角度が違うだけで、見ているものは同じ。異界を区別せずに受け止めて、この子は異界からやってきた。そして、どうなる?」
「力を失っている。ここには非対称性があるわね。私たちは異界に行っても能力の制限を受けなかった。つまり、異界にあってこちらにないものに依存した能力と、どちらにも存在するものに依存した能力があるということ?」
蓮子は腕組みをして、しばらく沈思した。メリーは、その様子を眺めながらグラスを傾けている。
ぽん、と手を打つ音が響いた。蓮子である。その双眸には、先程までとは異なる輝きがある。
「こころちゃん。あなた、こっちに来たときに違和感はなかった? 例えば、同じ見た目のご飯でも、こっちのほうが不味そう、みたいな」
「ふわっとしているわね」
相棒からの指摘に、蓮子はわかってないなと言わんばかり肩をすくめた。
「ふわっとさせているの」
こころは、自分にお鉢が回ってきたことに驚きつつも考えてみた。こちらの世界にやってきたときの違和感。考えるまでもなかった。
「あの生き物はなんて呼ぶんだ」
「イルカ?」
二人が揃って答えると、こころはうなずいた。
「イルカ、私は初めてあれと会うのに、楽しくもなんともない。私は、新しく誰かと会うのが好きだ。話したり、戦ったり、舞いを披露したり。あなた達と話しているのは楽しいのに」
一息に言ってから、こころは付け加える。
「つかれるけど」
三人の視線の向こうでは、イルカが舞い踊っている。水中を縦横に泳ぎ、仲間達と戯れ、水面を跳ねて水しぶきを上げる。そのタイミングは完璧で、見る者を決して退屈させない。
「この世界は……なんだかあのイルカのようだ。そう、あれらは作り物だろう?」
イルカたちは、やがて三人へ向けてのパフォーマンスを終了し、他の観客たちが見やすい場所へ移動していった。観客向けのパフォーマンスである以上、すべての観客に対して公平でなくてはならない。その様子を見届けた後、蓮子とメリーは頷いた。
「人形劇、でもない。糸を繰る者の我も感じられない。時計が時間を知らせるように、人の関心を集めるための機械、なのだな。……そうか。これだ。これが欠けていたんだ」
突如階下へ舞い降りたこころ。身を乗り出して見下ろしたメリーは目を見張った。その少女の周囲に、強い結界が生まれ始めていたから。その結界は急激に膨張し、店内を包み込む。少女の周囲に光が生まれ、やがて無数の面へと変じた。
「我が舞いを見よ。我がため汝らがためでなく、我らがための舞いを!」
†
博麗神社。花見の季節はとうに過ぎ、梅雨が迫る頃。霊夢は、久々にこころの姿を認めた。
「どうしたの。最近見なかったじゃない」
特に関心なさげなニュアンスを知ってか知らずか、こころは胸を張って続ける。
「遠くに行っていたの。面白い経験をしたわ」
境内を掃き清めていた手を止めて、霊夢はこころを見つめた。
「よかったじゃない。そのまま帰ってこなければ、ここももう少しは静かになったのに」
霊夢が棘のある言葉を吐くのはいつものことだ。しかし、言葉通りに受け取る者は、幻想郷中を探しても、もはや一人もいない。
「面白い経験をしたからって、住みたいとは限らないよ。霊夢だって、能が面白いからって、能舞台に住みたいとは思わないでしょ」
霊夢は、日がな一日こころが能を舞う中で暮らすことを想像して身震いした。きっと、一睡もできないに違いない。
「そうだ。次の新作能のアイディアが浮かんだぞ! 題して『夢違科学世紀』。すべてが正しく秩序だった世界の中で、二人の人間が秩序から逃れようとあがくんだ。抽象的な秩序じゃなくって、もっと具体的で不可思議なものを求めて」
「ふうん」
霊夢は退屈そうに相槌を打った。
「旅先では、そういうのがウケていたの? だとしたら――」
さぞかし、ろくでもない世界なんでしょうね。霊夢は言いかけて、やめた。そんな世界には、あるいは、やがてそうなるかもしれない世界には、心当たりがあったから。友人の住む場所を、あまり悪く言うものではないだろうから。
†
あの日、こころのゲリラ能公演は一軒の酒場では到底収まらず、洛中のあらゆる場所がその舞台となった。夜通し続いた舞は、こころが表現したいことを表現し尽くすことによって、彼女の帰還という形で自然消滅した。
当初こそ混乱していた各種の無人報道ネットワークは、一週間もすると異口同音に、京都全体を能舞台とする前衛的芸術企画がしかるべき段取りで秩序だって行われたことを報じ始めた。その顛末に蓮子とメリーが失望したことは言うまでもないだろう。
さりとて、科学世紀は学生の無邪気な雑談、オカルト趣味者の集うバーの噂話、ヒロシゲを降りた旅人の土産話、そうしたものを封殺できるほど完璧な体制というわけでもない。彼女の投じた一石は、体制の目も、秘封倶楽部の目も届かぬまま、世界へ重力波めいた波紋を広げていった。