ひとつの言葉が流れてきた。「失われた三十年」妙に頭に残るフレーズだった。
私は考えることにした。言葉をうのみにしてはいけない。はたしてどういう意味なのだろう。三十年というのは歳月である。時間概念が失われるというのはどういうことだろうか。たとえば三十歳の人が記憶喪失になってしまえば、その人の生きてきた歳月は失われたことになるだろう。しかしそれならば「失われた記憶」となるはずだ。この言葉には具体性がない。ゆえにもっと広い視野を持って、宇宙的に解釈を広げるべきだろう。かつて私の信じていた真実はすべて嘘だった。ただ受け取るだけではいけない。情報は疑って、よく考えて、吟味しなければならない。
いろいろ悩んだ末、最終的にはこう結論付けた。外の世界は三十年前に滅亡したのだ。そして時間だけが進み、空白という概念が流れ込んできたのだ。これから失われた三十年が幻想入りするだろう。
使命感にかられた私は人里の広場に行った。そしてできるだけ目立つように逆さにしたビールケースに乗った。大きく息を吸い込む。昼下がり、衆目の前、私は声を張り上げて演説をはじめた。
「謹聴せよ! 謹聴せよ! 我が名は渡里ニナ! 真実を告げる者なり! 謹聴せよ! これから滅亡がやってくる! 破滅の刻が三十年、やあやああとやってくる! 有象無象の集う未曽有の魑魅魍魎の跳梁跋扈! ことごとく、ことごとくすべてが失われます! 沈む夕日にひずむ空気、夜の帳が下りたなら、百鬼夜行の凱旋だ! 先頭は狐と狸とハクビシン、さらに続くは付喪神、しんがり守るは怨霊だ。あやかしたちは神を薙ぎ、焦土と化した王道楽土、不死鳥だけが黄泉返り、月は砕けて地に落ちる、瞬きの間に降り注ぐ、天狗のごとく降り注ぐ!
さながら天の川の大海嘯! 瓦礫と屍が住み着いた道を歩くは破戒僧! 錫杖片手に通りを行けば行脚の音色が鳴り響く、シャランシャララン鳴り響く! 天使のラッパに誘われて悪魔が来りて笛を吹く! それが合図と立つ狼煙、鬼さんこちら手の鳴るほうに、笑う者にも足掻く者にももはや避けられぬカタストロフィー! 喧々囂々、戦々恐々、空飛ぶ龍は怒りに狂い、雨、雨、雨のちに彼岸花が乱れ咲く! ふたたび隠れる天照、東天紅は叫びを忘れ、寂寞が世を支配する! 生きるも死ぬも三十年、ああ儚かな三十年! その前に逃げよ恐れよ祈りを捧げよ! 人類はすべからく破滅に備えるべし!」
住民は耳を貸さなかった。演説を聞いた魔理沙は来年のことを言うと鬼が笑うんだぜと言って笑った。鬼め。霊夢がやってきて馬鹿なことを言うなとぼこぼこにされた。鬼め。渡る世間は鬼ばかりだ。ひどい話である。しかしそんな冷たい世間の中に仏もいた。唯一耳を貸してくれたのは幻想郷縁起を記すことを生業とする稗田阿求だった。
「もちろん完全に信じているわけではありません。こういう場合ほとんどは杞憂でしょう。ただ笑い事じゃないと思ったんです。稗田家は短命です。三十年、それは求聞持を持つ者の寿命なんです。これはなにかの符号です」
「それはどういうことでしょうか」
「わかりません。ですがたとえば私の代で編纂した幻想郷縁起、これはまさしく三十年という時を記したものと言えるでしょう。これが跡形もなく消えてしまうのだとすれば、人は妖怪に対抗する術をひとつ失い、そして妖怪もまたその姿かたちを変えてしまうでしょう」
「た、大変だ。みんなに、妖怪のみんなにも伝えなきゃ……!」
「私はすぐに再編纂に取り掛かります。今思えば私の記載はのほほんとしすぎていました。もっと彼らを煽り、たとえなにか不測の事態が起きても対応できるように備えさせなくては」
それから阿求は死ぬ物狂いで作業をした。まさしく命のろうそくを削っていた。私は私で妖怪の山や魔法の森、竹林や冥界に赴いて喧伝した。そして我々の必死の訴えが功を奏したのか、とうとう賢者たちが動いたらしい。経緯や詳細は知らないが、きっと滅亡の未来は訪れないのだろう。もしかするとそんなものなどはじめからなかったのかもしれない。どのみち我々の勝利だった。ただ私の中には虚しさが残っていた。ちなみに第百四十一季に発行された幻想郷縁起は禁書指定となった。
博麗神社で焚書が行われた。煙が空へとのぼっていく。お焚き上げの火の前で阿求はさめざめと泣いていた。隣には友人と思しき人物がいて、悲嘆に暮れる彼女をよしよしと慰めている。なんだかいたたまれなくなった。こうやって真実は秘匿されるのだ。ガッデム。