東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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同人誌評
2022/02/17

「噂と、物語と、あるいは奇書について」同人誌レビュー『ジムノペディが終わらない』/ゐた・せくすありす

同人誌レビュー『ジムノペディが終わらない』

1.はじめに

 まず最初にお伝えしなければならないことは、『ジムノペディが終わらない』は現在boothおよびメロンブックスにて電子書籍版を入手できるという事実だ。

『ジムノペディが終わらない』(ゐた・せくすありす より引用)

ジムノペディが終わらない | BOOTH

ジムノペディが終わらない | メロンブックス

 発行サークルは『ゐた・せくすありす』、筆者は海沢海綿。これが、噂が噂を呼び、今では物理書籍版を入手することが不可能に近くなった、傑作奇書『ジムノペディが終わらない』の原書を正規の手段で読む方法である。内容そのものは、物理版も電子書籍版も違いはないので、安心して電子書籍版を購入してほしい。

 なぜこんな前置きをする必要があるかというと、『ジムノペディが終わらない』という作品は入手困難であると同時に、複数のバリエーションが存在するからだ。

 ひとつは、上記した原書である『ジムノペディが終わらない』。2011年に文庫版が発行され、その後、作者本人によって2018年に電子書籍版が発行された。

 次に、サークル『凋叶棕ティアオイエツォン』による、『ジムノペディが終わらない ―捧げられたイメェジ―』。これは、2013年に発行されたCD『すすめ』に収録された、『ジムノペディが終わらない』を元にした音楽作品である。

『薦』(凋叶棕 より引用)

 さらに、2015年に発行された、サークル『鏡花風月』と『ゐた・せくすありす』の合作企画である、『幻想が終わらない』に収録された、『ジムノペディが終わらない』。

『幻想が終わらない』(鏡花風月、ゐた・せくすありす より引用)

幻想が終わらない

 これは、二サークルによるプロット交換合同企画である。『鏡花風月』の過去作品である『幻想で逢いたい』を海沢海綿が本文執筆し、逆に『ゐた・せくすありす』の過去作品である『ジムノペディが終わらない』を和紀が本文執筆した。

 いわば、和紀版『ジムノペディが終わらない』と言える。こちらを入手する方法は、現状では存在しない。

 そして最後は、2019年に発行された、サークル『Alya』による『ジムノペディが終わらない-Re:Medianoid-』となる。

『ジムノペディが終わらない-Re:Medianoid-』(Alya より引用)

ジムノペディが終わらない-Re:Medianoid- | BOOTH

 こちらは、海沢海綿の原書版『ジムノペディが終わらない』を丸ごと再録し、その上で、サークル『Alya』のかいゆが本文執筆した宇佐見菫子視点の短編を加えて再構成したものとなっている。

 いわば再録合作版とでも呼ぶべきものであり、こちらは電子書籍版が存在するので読むことができる。

 以上、簡単にまとめてみたのだが、『ジムノペディが終わらない』という作品は、原書版、原書電子書籍版、楽曲版、プロット交換版、再録合作版、再録合作電子書籍版、というバリエーションが存在することになる。

 今回レビューの対象となっているのは、サークル「ゐた・せくすありす」発行の、原書版『ジムノペディが終わらない』となる。とはいえ、『ジムノペディが終わらない』について語ろうとすれば、どうしても本文以外について言及しなければならないのだ。

 それはさながら、実態のない噂話のように。

 あるいは、都市伝説のオカルトのように、だ。

 

2.まだはじまらない

 今回、どうしてわざわざ電子書籍版が存在することから語りだしたのかといえば、ひとえにそれが『ジムノペディが終わらない』につきまとう都市伝説のイメェジだからだ。

 曰く、人の心を狂わす奇書。

 曰く、人の胃をくすぐる禁書。

 曰く、手に入れることのできない、噂話の中にだけ存在する同人誌。

 どれも正しく、どれも間違っている。特に最後のイメェジに関しては、上記したように電子書籍版で今現在も読むことが可能だ。ただし、物理書籍版に関してはほぼ手に入れることが不可能というのも事実だ。あまりよろしくないことに、中古やネットオークションで売られることもあるが、ちょっとびっくりするぐらい高値がついているからだ。

 一方で、物語を読んだ人間が、心が狂うような読後感を味わうのも、また間違いではないだろう。人間の心や胃に突き刺さり、かき乱すだけの力を、この物語が孕んでいることもまた確かなのだから。

 現実を犯し、人間の心を侵す力を、『ジムノペディが終わらない』は持っている。それは事実であり、現実だ。

ねえ、貴女。

思うに、この現実は。

脆く果敢ないものなのかしらね?

(凋叶棕『ジムノペディが終わらない ―捧げられたイメェジ―』より)

 そういった事実が、逆に『ジムノペディが終わらない』という存在を都市伝説めいたものへと変化させていった。噂が噂を呼び、イメェジがイメェジを膨らませる。現実はいくつものイメェジによって現実は歪められてゆく。

 イメェジが構成され、

 イメェジが挿入され、

 イメェジが関連付けられる。

 そうして噂話の中で語られる『ジムノペディが終わらない』は、本来の『ジムノペディが終わらない』とは、別物なのだ。まったく同じ姿をしていても、その中身は大きく歪み、本質は手が届かないほどに遠ざかっている。

 さながら、寄生虫に乗っ取られた魚のように。

 あるいは、蠅の卵を産み付けられた蟻のように。

 もしくは、黴に乗っ取られた蛾のように。

「ねぇ、お姉さん。今日は、ある種の黴の話をしてあげようか」

蕩けそうな夜色の笑みが滲む。

「そいつは、最初に蛾の幼虫に住み着く。そして、幼虫の中で増え続けるの。増えて、増え続けて、終いには蛾の視覚中枢へとその足を伸ばしてくる。そう、幼虫の光を奪うの。光を奪われた幼虫はどうすると思う?」

(鏡花風月『ジムノペディが終わらない』より)

 もしインターネット上で誰かが『ジムノペディが終わらない』について語っているとき、それがどの『ジムノペディが終わらない』について語っているのか確認する必要がある。

 原書か。電子書籍か。凋叶棕版か。鏡花風月版か。Alya版か。あるいは、実在しない噂話の中にだけ存在する、イメェジとしての『ジムノペディが終わらない』についてなのか。それをはっきりすることで、私たちは同じイメェジを共有することができる。

 けれど。

「ねぇ、教えてよ。夢の淵の現の底の幻想の郷の境の奥には何も無かったわ。何も無かったのよ。ねぇ、如何してなの?」

(ゐた・せくすありす『ジムノペディが終わらない』)より)

 ……本当に?

 本当にそうだろうか?

 私たちは、同じイメェジを共有しているのだと、信じてるだけではないのだろうか? そう信じたいだけで、まったく違うものを読み、まったく違う何かを受け取ったのではないのだろうか? 私たちが語るそこには、もしかしたら、何もないのではないだろうか?

 そんな疑問を抱いてしまうほどの魔力を『ジムノペディが終わらない』が孕んでいることも、また確かなのだ。

 

3.はじめたくはある

 本題に入る前に、もう一つ書いておかなければならないことがある。それは呪いについてのことであり、同時に祝いについてのことでもある。

 すなわち、傑作を書くということが、何を意味するかという話だ。

 これは創作をする側からの発言になるのだが、傑作を書くということは嬉しいことであると同時に恐ろしいことでもある。なぜならば、傑作を書いた瞬間に創作人生が終わらない限りは、自らの手で傑作を乗り越えなければならないからだ。

 そうしない限り、読者は新作ではなく、傑作の再販を望むのだ。事実、『ジムノペディが終わらない』も再版を望まれ続けていた。それはありがたいことでもあり、おぞましいことでもある。

 なぜならばそれは、創作者としての行き詰まりだからだ。未知なるものを求める心意気は果て、どこへもいけなくなってしまう。そうして、同じところをぐるぐると廻るコースターに成り果てる。あるいは、同じ演目を延々と繰り返すサーカスに、だ。

「そう、サーカス。コースターに乗って、レールの上を走るだけ。只、周りの人形達がサーカスを見せてくれるのさ。初心者には打ってつけでしょ? 遊園地なんて、所詮はそんな物なのだから」
(ゐた・せくすありす『ジムノペディが終わらない』)より)

 それは決して悪いことではない。

 遊園地には、サーカス以外にも出し物はある。観覧車がある。メリーゴーランドだってある。ジェットコースターだって、コーヒーカップだってある。他の何に乗ってもいいのだ。それは遊園地に訪れたものの自由だ。

 そして同時に、サーカスだけを延々と繰り返すのも、また自由なのだから。望まれる傑作を作り出したことは誇らしく、時を経ても求められることの喜びがあり、愛されているという自覚もあるだろう。

 だが。

 それでも。

 やはりそれは、祝いであり、呪いなのだ。

「未だ、ジムノペディは終わらせないよ」
(ゐた・せくすありす『ジムノペディが終わらない』)より)

 書き手にとっての物語は、書き終えた時点でエンドマークがつく。

 読み手にとっての物語は、読み終えた時点でエンドマークがつく。

 物語は、終わる。けれど、ジムノペディは終わらない。音楽が鳴り続けるように、噂話は人の口から口へと鳴り続ける。傑作奇書の噂話はどこまでも広がり、噂を耳にしたものは墓を掘り起こすように再版を求める。

『ジムノペディが終わらない』を、終わらせないように。

 たとえ電子書籍版が存在しても、物理書籍の原本を欲しがる。なぜならば、それは<本物>だからだ。噂話でも、都市伝説でもない、確かな本物。真実の、『ジムノペディが終わらない』。噂話の中で語られる作品だからこそ、本物を人は求めずにはいられないのだ。

「面白かったかい、君たち」
少女はカメラに向かって問いかける。答えを聞く間もなく、座っていた椅子を持ち上げ、レンズに向けて叩きつけた。画質がざるりと乱れる。
「私はもう飽きちゃったよ」
(Alya『ジムノペディが終わらない-Re:Medianoid-』)より

 それを作者本人がどう思っているのかは、作者本人に訊ねるしかない。だが、噂話の中に存在する『ジムノペディが終わらない』は、もはや作者本人の手を離れてしまっている。多くの人間のイメェジが積み重なり、本質は別物になってしまっている。

 それはもう、噂話の中にしか存在しない幻想なのだ。

 

4.すでにはじまっているのかも

 さて。

 ここまで読んだ貴方は、そろそろ疑問を抱いている頃だろう。いったいこのレビューはいつ本題に入るのだろうか、と。

 答えを言ってしまうと、入らない、ということになる。率直に言ってしまえば、『ジムノペディが終わらない』の中身についての話をする気がないのである。したがって、レビューはいつまでも始まらない。

 正直に言ってしまえば「さすがにこのレビューは全面リテイクをくらうのではないか?」と書きながら思っているが、今現在貴方がこの文章を読んでいるということは、東方我楽多叢誌さんが寛大だったということだ。

 この場を借りて御礼を述べさせていただく。いつもありがとうございます。

 さて。ではなぜ解説をしないのか?

 それは解説をする必要がなく、解説をする意味もないからだ。何よりも『ジムノペディが終わらない』という作品そのものが、解説という行為を拒んでいるからだ。

 勿論、それらしい説明をつけることはできる。物語をパッケージに詰めてラベルを貼って、「これはこういうものですよ」と解説することもできる。しかしそれは『ジムノペディが終わらない』という作品の本質ではない。

 それはイメェジだ。

 イメェジでしかないのだ。

人には隙間がある。如何したって隙間がある。

けれど、何故其れを埋めたがっていたのだろうか。

(ゐた・せくすありす『ジムノペディが終わらない』)より)

 私が語るレビューは、私の持つイメェジに過ぎない。どれだけ言葉を重ねたところで、<本物>からは遠ざかるだけだ。

 そうである以上、私はこういうしかない。

 何も言わずに、まず読んでみてください。

 そうして、貴方のイメェジを抱いてください。

 それが本物かどうかは、誰にもわかりませんが。

<本物>。

 この言葉ほど胡乱なものはないだろう。陰謀論めいた考えではあるが、貴方は身の回りにあるものが本物であると、本当に言い切れるだろうか。

 例えば、貴方のお手元にハンバーグがあるとする。パッケージのラベルには合い挽き肉と書いてある。けれど、本当に? 悪意に満ちた都市伝説のように鼠や蚯蚓が、あるいはそれ以外の何かの肉が混ざっていないと本当に言い切れるのだろうか? 貴方はそれを自身で確かめただろうか?

 けれど本当に恐ろしいのは、自分の目で産地を確認したとしても、今度は自分自身の目を――あるいは正気を疑わなければならないということだ。

 そして、それを確かめる術は、ない。

ああ、今は、午前三十八時九十二分七十八秒か。

(ゐた・せくすありす『ジムノペディが終わらない』より)

 貴方は、貴方の正気を保証できない。正気であると信じることしかできない。ハンバーグの肉が本物であると信じることしかできない。お手元にある『ジムノペディが終わらない』が本物であると信じることしかできない。

 さもなければ。

 この世には本物などなくて、自分が狂っているのだと、受け入れるしかない。

『ジムノペディが終わらない』とは、そういう世界と自身に対する猜疑心を呼び覚ます物語であり、だからこそ奇書と呼ばれるのだ。単純にグロテスクな描写があるからではなく、自身の正気を疑いたくなるからこその、傑作なのだ。

 

5.未だジムノペディははじまらない

 最後になるが、もしも貴方が『ジムノペディが終わらない』を読んだことがいのだとすれば、ぜひ読んでみてほしい。そして、その後でもう一度このレビューを読み返してみてほしい。

 一見すると本題に一切触れておらず、『ジムノペディが終わらない』の周辺情報ばかりを語っているようでいて、実のところ物語そのものについて極めて迂遠な方法で語っていることに、貴方は気づくはずだ。

 結論を言おう。

『ジムノペディが終わらない』について語るには、『ジムノペディが終わらない』を語らない、という手法をとるしかなかったのだ。直接的に物語について語ってしまえば、それは私という人間のイメェジを塗り足すだけで終わってしまう。

 むしろ、多くのイメェジが折り重なって作られており、そしてその真偽は決して明瞭にならない、ということこそが大事なのだ。

<彼女>は本当に正気だったのだろうか? 彼女が見ていたものは、吸引機がもたらす幻覚だったのか? それとも、世界の真実を見ていたのか。あるいは――そういう風に、世界は歪んでしまったのか。

 答えは誰にもわからない。なぜなら、ジムノペディは終わらないのだから。結末を出すことを拒み、エンドマークを否定した物語。それこそが、『ジムノペディが終わらない』なのだ。そのなんともいえない居心地の悪さこそが、この作品の最大の魅力であると私は思う。

 何人もの作者が、『ジムノペディが終わらない』に自身のイメェジを塗り足していった。多くの感想や噂話が生まれていった。それらはきっと、自分なりの答えを出し、自分なりのエンドマークを刻むための行いなのだろう。

 人間はきっと、ジムノペディを終わらせる必要があるのだ。

 余談ではあるが、もしも四面楚歌版『ジムノペディが終わらない』が頒布される日がきたら、<ああ、レビューで自分なりのジムノペディを終わらせることができなかったから再度挑むんだ>と笑ってもらえれば幸いである。

 実際に書くとしたら完全に蛇足になるなあ、と思いつつ、それはそれでいいのかもしれない。なぜならば、蛇に手足が生えたのならば、蛙を捕まえることだってできるだろうから。

 このオチが孕むイメェジが、どうか『ジムノペディが終わらない』を手に取って読んだ貴方に伝わることを祈りながら、レビューの〆とさせていただく。ありがとうございました。

 

作品情報

 

作品名:
ジムノペディが終わらない

サークル名:
ゐた・せくすありす

作家名:
海沢海綿

Twitter:
https://twitter.com/kaimen_umisawa

委託販売情報:
https://vita-sexualice.booth.pm/items/863304

海沢海綿さんより、ひとことコメント:
勢いだけで書いたものなので、小説として結構拙い部分も多い気もしますが、オチだけは今でもちょっと気に入っています。
でも、10年前の本がこうしてレビューされるのを聞いて、東方Projectって本当に息の長いジャンルだなと思いました。

海沢海綿さんより、最近の活動状況:
剛欲異聞の空が倒せなさ過ぎて、コントローラーを新調しました。

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