「文字を描く」同人誌レビュー『ブルーブルーブルーデイズ』『みなしごじんるい』/タケヤブドクター
同人誌レビュー『ブルーブルーブルーデイズ』『みなしごじんるい』
1.初めに
初めに言っておくと、このレビューはやや特異である。変、と言ってもいい。今にして始まったことでもないが、しかし、『タケヤブドクター』の同人誌の良さを伝えるためにはこういう書き方をするしかなかった。
いや、良いということは、下記のURLをクリックして、イラストを一目見たらそれだけでわかるはずだ。魅力的で素敵なイラストが幾つも並んでいるのを直接見るのは、文字を費やすよりも一目瞭然でわかりすい。
だから本来は、イラストがどう素晴らしいのか、どんな素晴らしいイラストが描かれていたのか、というのをレビューして紹介していくのが正しいのだろう。
しかし今回、私はそれを放棄する。
私がレビューするのは、『タケヤブドクター』の描く文字だ。それも、文字によって何が描かれているのか、という内容についてのレビューではない。どういうふうに文字が描かれているのか、という、文字表現そのものが今回のレビュー対象である。
しかし、私は確信している。それを言語化しレビューすることが、ただでさえ魅力的な『タケヤブドクター』の、さらに一目見てわからない隠された部分の魅力を伝えることができる手段なのだと。
そのため少し変わったレビューとなるが、これを貴方が読んでいるということは掲載許可がでたということだ。東方我楽多叢誌の懐の広さに感謝すると同時に、いましばらくこの奇妙で迂遠なレビューに付き合っていただければ幸いである。
2.文字を形作る『ブルーブルーブルーデイズ』
ブルーブルーブルーデイズ
https://yabuharasenzai.booth.pm/items/4207817
文字とは何だろうか。
難しい話をするつもりはない。むしろ、簡単かつ日常的すぎて普段から意識しない、当たり前の話だ。パソコンやスマートフォンで使う電子的文字、つまり貴方が今見ているこの文字は、フォントと呼ばれる文字素材を使っている。誰がどんな言葉を入力しようが、まったく同じ文字を描画してくれる。
整っていて、読みやすくて、きわめて客観的に存在する文字。
その気になれば《こんなふうに》フォントを変えることで文章の雰囲気を変えることはできる。この東方我楽多叢誌のサイトにしても、意識してみれば、たくさんのフォントを使った表現がなされていることがわかるだろう。
しかし本来、文字とはきわめて主観的なものだった。
書いた人間の主観的な人間性が伝わってくるもの。書いた瞬間の主観的な感情が伝わってくるもの。それこそが書かれた文字の価値だった。『ブルーブルーブルーデイズ』は、そんな手書きテキストによって彩られた日記風イラスト集である。
『ブルーブルーブルーデイズ』は、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの日記である。蓮子の文字をさかしまさんが、メリーの文字を薮原洗剤さんが手書きすることで、二人の少女がリアルに日記を書き綴っている雰囲気が強く表現されている。
文字を見比べると幾つものことがわかる。塗りつぶし方一つにしても、蓮子はペンを上限に動かして直線的かつ執拗に塗りつぶしているのに対し、メリーはくるくると幾つもの円を描くようにして塗りつぶしている。
蓮子の文字は整った直線的な文字だ。とめはねはらいを丁寧に行い、文字は繋がっても崩れてもいない。雑な性格だったのなら、『空から』の『ら』は一筆書きになっているだろう。一文字一文字をきちんと記すことを意識しながら書いているのが見て取れる。
メリーの文字は丸みを帯びて可愛らしささえある文字だ。『い』や『た』、濁点や漢字の一部は筆記体のように繋げられて書かれているのが特徴だ。柔らかく流れるような文字は、まるでメリーに語り掛けられているかのようだ。
日記帳の使い方そのものにも差異が出ている。蓮子は右端まで余さず使おうとしており、そのせいで『降った』の『った』が次の行になってしまっている。言葉の途中での改行は、読みづらくなるために人によってはやらないことだ。蓮子と異なり、メリーは言葉の途中で改行していない。日記帳を端まで使おうという意識もあまりない。言葉の区切り、読みやすい箇所で改行されている。
どちらが良い、という話ではない。改行を挟むことなく綴られる文字は蓮子の頭蓋からとめどなく零れ落ちる言葉のようであり、読みやすく整えられた文字は幾つものフィルターを通して濾過され秘密を隠しているようでさえある。
それらはつまるところ、表現であるということだ。
文字を書くということは、書かれた言葉の意味を伝えるだけではない。文字そのものが、キャラクターや物語を表現するための創作物であるのだ。
『ブルーブルーブルーデイズ』の、宇佐見蓮子が内心の不安を吐露するシーンがいちばんわかりやすい表現だろう。この頁は個人的にも大好きで、マエリベリー・ハーンという少女について『なにも書くことができない』、彼女のことを何も知りはしないのではないか、という蓮子の憂鬱が表現されており、画像引用していない『私がマエリベリー・ハーンについて書けることは《これ》だけだ』という悲鳴のような演出がとても好きなのでぜひ読んでほしいのだが、ここではいったん文字だけに注視することにする。
月曜日の日記とは比べものにならないほど崩れた文字が、蓮子の不安を説明するまでもなく表現しきっている。ここで『メリー』という愛称ではなく『マエリベリー・ハーン』と表記しているのもとても良い。そうすることで親しみは消え、得体のしれない相手に対する恐怖と不安が色濃くにじみ出ている。
もっとも秀逸なのは、最後の『マエリベリー・ハーンは、』だ。この『マ』が素晴らしい。この大きなインクの滲みだけで、宇佐見蓮子の葛藤を想像することができる。ペンを紙に置き、けれどすぐ文字を書くことができず、手が固まってしまう。今頭の中にあることを、本当に書いてしまっていいのか、認めてしまっていいのか彼女は躊躇したのだろう。
そもそもこの頁だけ背景に日記帳の罫線が描かれていないことから、これら全ては日記に書くことさえできない、表に出すことのできない心の奥底に封じ込めている宇佐見蓮子の不安なのかもしれない。
『ブルーブルーブルーデイズ』が面白いのは、そういった書くという行為に対して登場人物たちが自覚的だということだ。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの日記風テキスト、と銘打たれているが、そもそも日記とはとても主観的なものだ。誰かに読ませるために電子上に公開するならまだしも、手書きの日記を読むのは自分自身だけだ。事実の羅列をする必要もないし、報告書のように理論整然としている必要もない。そして、本当のことを書く必要もない。
たとえば『月曜日』に書かれていることは、現実にあった出来事ではない。宇佐見蓮子の頭の中にだけ存在している出来事、彼女が興味を示し思考を費やした物事を《降ってきた》と表現しているのだろう。
一方でメリーも、現実にあったとは思えない表現を幾つもする。『押入れで夏を飼っていた』、『満月を掬いに海へ向かった』など、なにかの比喩表現なのだろうかと想像する文章がごく自然に書かれている。普通に考えれば、それは比喩であるはずだ。しかしメリーという特異な瞳を持つ少女であることを考えると、それらはもしかしたら全て本当のことなのかもしれない、彼女は世界の在り方を見たままに書いているのかもしれない。
もしも他の誰かが、たとえば宇佐見蓮子が、その日記を読んだらどう思うだろうか? 一緒の時間を過ごしていたはずなのに、まるで世界の捉え方が違うのだとわかってしまったら。それとも、書かれた文字は全てメリーなりの冗談だと笑い飛ばすだろうか? その答えを確かめる方法がないことに気づいて怯えるのだろうか。
手書きの同人誌、というのは実は多くはない。フォントの方が読みやすいから、というのもあるが、単純に手書きは労力がとてつもないからだ。文庫本一冊分どころか、この東方我楽多叢誌の原稿を手書きしろ、と言われたら泣いて謝る自信がある。そうまでして書いた文字も、きっと手書きで読みづらい、と言われることだろう。
けれど『ブルーブルーブルーデイズ』を読んでもらえればわかるのだが、手書きの文字とは、優秀な表現方法なのだ。読みづらく、崩れるからこそ、そうでしかできない表現というものが存在する。日記や手紙といった、書かれることを前提とした創作物には特に向いていることだろう。
では、手書きでなければ多彩な表現はできないのかといえば、そうでもない。フォントを幾つもつかいわけることで、似たような表現は可能になる。手間はかかるが、文字をひとつひとつ加工するという手もある。
しかしそれ以上に、そもそも、文字による表現、というのはもっと多彩なのだ。自由だとも言っていい。そのことを、タケヤブドクターが発行したもう一冊の同人誌『みなしごじんるい』は私たちに教えてくれる。
3.色づく文字『みなしごじんるい』
みなしごじんるい
https://booth.pm/ja/items/3818095
文字とは黒単色のものである。
というのは、もしかしたらごく狭い範囲の思い込みであるかのもしれない。手元にある筆箱には赤ペンも蛍光ピンクペンも入っているし、黒といっても鉛筆と筆ペンでは色合いが違う。インターネット上だと《赤字》や《青字》など色をつけた表記は容易くできる。やり過ぎると読みづらいので、明確な意図がないかぎりはしないだけだ。
本来、文字もまた表現である以上、彩り多彩であるはずなのだ。にもかかわらず、同人誌という紙に印刷を考えたとき、文字は黒単色になってしまう。
なぜか。
答えは、お金がないからだ。
ふざけているわけではない。モノクロ印刷というのは、インクを黒一色だけ使った印刷である。それに対してフルカラー印刷というのは、シアン、マゼンタ、イエロー、ブラックという、四種類のインクを調合して印刷する技法である。つまり単純化していってしまえば、カラー印刷はモノクロ印刷の四倍インクを使っているのであり、印刷費も四倍とは言わずともかなり跳ね上がることになる。
なので、漫画本や小説本というのは、よっぽどの理由がないかぎりはモノクロで印刷されたものになる。以前紹介したリレイションバレイの同人誌のように、インクを二色使った多色印刷、という特殊装丁も存在するので、気になった方は調べてみてほしい。世の中には驚くべきことに五色印刷や七色印刷というのも存在するのだ。
話が脱線したが、こと文字という分野においては、特別な理由がないかぎりはモノクロで印刷するものだ。それは文字そのものよりも、文字によって伝える情報の方にこそ重きを置きがちだからである。しかし『ブルーブルーブルーデイズ』において語ったように、文字そのものを表現として見たとき、それは色印刷をする特別な理由となりえるのだ。
『みなしごじんるい』は、秘封倶楽部と短歌とイラストの本である。右頁に大きくフルカラーのイラストが、左頁にはイラストに関連した短歌が掲載されている。短歌とは端的に言えば、五、七、五、七、七のリズムと季語によって彩られる詩の世界だ。
一頁に一行だけ、というさっぱりと美しい構成に感動するが、注目してほしいのは文字の色である。柔らかな薄紫色で文字が表現されているのがわかるだろうか。それは昼と夜の境界である夕暮れの色でもあり、赤色と青色が触れあう境界の色でもある。
つまりは、蓮子とメリーが手を繋いだ色でもある。
いったいなにが『つまり』なのかを伝えるためには、『みなしごじんるい』に収録された他の作品を見ていく必要がある。逆に言えば、この本は、本全体を通して意味が通るように色が配置されているということだ。
蓮子について表現した頁では、文字の一部分が赤色で表記されている。イラストの方では、蓮子の瞳を中心に一部赤色が表現されている。意図して色数を抑えてモノクロめいたイラストに、一つだけ色を用いることで強く強調された表現だ。
文字もまた、黒い背景に白抜きの文字、という構成に、一か所だけ赤を混ぜることで、夜や宇宙といった暗闇を、蓮子の意思を乗せた瞳が一筋の光となって明かし貫くような印象を醸し出している。
メリーについて表現した頁では、文字の一部が青色で表記されている。イラストの方では、メリーの瞳を中心に一部青色が表現されている。背景は白く、先ほどの蓮子の頁と対になった表現だ。
詩とイラストがなにを意味するのか、というのは解釈になるのでここでは深掘りしない。詩は全てを説明しない。むしろ、説明しない部分にこそ核がある。詩は短い文章それ単体ではなく、文章に書かれていない部分を想起させるものなのだ。だからこそ、1頁に詩が一つで空白が多い、という構成は詩そのもので美しいのだが、いままで引用した画像をよく見てほしい。
文字に色があるように、背景にも色がある。それも、かなり細かく設定されている。最初の見開きと、メリーの詩が掲載された頁は、どちらも白い背景ではあるが、白の色合いが違うのだ。前者は柔らかなクリームめいた白であり、後者は冷たく張り詰めた白である。
もう一つ例を出そう。
こちらは蓮子について表現した詩の頁だが、背景は黒色になっている。ただし、先の何も見えない宇宙について表現した真っ黒の頁とは異なる。これは夜の色であり、夜の街の表現だ。文字の赤色にしても、生命と意思の色ではなく、夜を照らすネオンの色めいている。
この頁だけではない。『みなしごじんるい』は全ての頁がそうなっているのだ。フルカラー印刷による同人誌、という利点を最大限に利用するために、イラストだけではなく文字と背景にも色を用いているのだ。
思うに、これらは全てひっくるめて詩なのだ。色付けされた文字と背景は、詩であると同時に、一枚のイラストでもある。背景の色と、文字の色。それが何を意味するのか、作者は決して説明しない。けれど、明らかにそこに意味があるのだ、という構成をしている。そしてそれがきちんと伝わるように、色に関連づけた詩が何度となく表現されるのだ。
そういう視点に立ったとき、『みなしごじんるい』の表紙はとたんに意味深になる。
色とは何か? その答えは、光である。光には最初から全ての色が含まれる。けれど人間の瞳は、その色を見ることができない。光が物体にぶつかったとき、反射された波長の光だけを『色』として認識している。
例えば、紫色のものがあるとする。それを見るとき、私たちは紫色を見ているのではなく、紫色以外の全ての色が見えていないのだ。
詩が見えているもの以外の方が情報量が多いのと同じように。
対人関係において、見えているものがごく一部でしかないように。
豆電球という小さな光によって照らされる蓮子とメリーの表紙は、詩の在り方であり、色の在り方であり、関係性の在り方そのものだ。小さな光は、宇宙の全てを照らしはしない。世界の秘密を全て明らかにしたりはしない。照らし出され、見えるものはほんの少しだけだ。
けれどそれは、存在しないことを意味するのではない。語られない部分、見えない部分、照らされない部分には、封じられているかのようにたくさんの秘密が隠されている。そのことを魅力と感じるのか、怯え恐れるのかは、主観に依るのだろうけれど。
秘封倶楽部というのは、封じられた秘密を暴く科学世紀のオカルトサークルだ。『みなしごじんるい』は、そんな秘封倶楽部の在り方を表現しきっている。表現する内容だけでなく、表現の方法それ自体が表現であり創作なのだ。
文字に色がつき情報量が増えることで、同時に描かれなかったものが強調される。それは、全ての色を含む光に境界を引くような行為だ。境界がひかれることで世界は鮮やかになる。色とは世界を別つ境界である。
だからこそ、様々な色によって彩られた本の中で、まったく色を使わないということに意味が生まれる。『みなしごじんるい』において、完全なる白と黒は明確な意図をもって使われている。それが何を意味するのかは、ぜひ自身の目で確かめてみてほしい。
(ところで余談だが、みなしごは秋の季語であるらしい。これはみなしごが蓑虫の別名であることに起因するのだが、その蓑虫が日本では滅びつつある種であるというのが面白い。科学世紀では、きっと蓑虫は絶滅していることだろう)
3.終わりに
小説やエッセイ、レビューを書く際、私たちは《文字で何を書くか》ということで頭がいっぱいになりがちだ。しかしイラストレイターやロゴデザイナーの人ならば、《文字をどう描くか》ということを考えることだろう。
本を作るときも、余白や文字のサイズ、使用フォント、文字数と行数のバランスを考えることはある。それらは読みやすさだけではなく、本の雰囲気を決定づけるものだ。物語の内容にあわせてそういった組版を変更することはある。
しかし『タケヤブドクター』の同人誌を読むと、《文字とはここまでできるのだ》という驚きと感動がある。そこに秘められた労力を考えるだけで眩暈がするが、それがどれほど美しい本を生み出すのかは実物によって証明されている。
《文字とはここまでやっていいのだ》という赦しのようでもあるし、《文字とはここまでやらなければならないのだ》という警句のようでもある。今回紹介した、文字の形、文字の色、というのは、文字の可能性の一部でしかないはずだ。おそらくはもっと、様々なことができるはずなのだ。
隠された膨大な秘密の、ごく一部。
秘密は暴かれた。作者本人は意図したわけではないだろうが、今、私は作中の人物と似たような心境になっている。すなわち、暴かれた秘密を前にして、臆して片目を瞑るか手を伸ばして触れるのかを試されている気分だ。
読んだ人間を揺さぶり、何かを考えさせる力。それを、『タケヤブドクター』の同人誌は持っている。描かれるイラストと言葉という光に照らされるとき、読み手の色もまた浮かび上がるのだ。
作品情報
作品:
ブルーブルーブルーデイズ
みなしごじんるいサークル:
タケヤブドクター作家:
薮原洗剤Twitter:
https://x.com/Washman711薮原洗剤さんより、ひとことコメント:
断片的なスナップショットを元に、秘封倶楽部の全体像を想像するのが好きです。
特に短歌を使った二次創作は、読み手側に想像の余地を大きく残すという点がユニークで気に入っています!
新刊告知
作品:
悪趣味少女ポラロイドイベント/スペース:
科学世紀のカフェテラス 2024年9月23日(月・祝)
夢-26 タケヤブドクター京都秘封新刊の表紙です!趣味が悪い本!!
最高表紙デザインはぬめの(@nununumeno)さん!ありがとうございます……😭 pic.twitter.com/R4iNsYSTIS— 薮原洗剤🫧京都秘封【夢-26】 (@Washman711) August 30, 2024