高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十七回:無貌のパンドーラー #秦こころ
幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生と申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。
無貌のパンドーラー

秦こころは付喪神(面霊気)です。六十六種類の面の集合体であり、個々の面が自我を持っているようないないような感じです。
能力は「感情を操る程度の能力」ですが、感情ってなんでしょうね。操られるとどうなってしまうのか、無意識くらいよくわかりません。ということで、今回も所々でこいしちゃんが出てきます。いや、ちゃんとこころちゃんの話なんですけど。
二つ名は「表情豊かなポーカーフェイス」です。その名の通り本体(?)は無表情ですが、多種多様な面の集合体なので感情表現の手段は多彩です。さらに言えば、感情は表情だけで表すものではありません。身振り手振りといったボディランゲージも立派な表現手段です。
BGMは「亡失のエモーション」ですね。エモが失われているらしいですが、それってどういう状況なんでしょうか。
『東方心綺楼』では人里に厭世感が蔓延し、人々が未来を見失っている状況から物語が始まります。プレイアブルキャラクター的には、秦こころから希望の面が失われているという形で表現されています。まあ、希望の面はこいしちゃんが持ってるんですけど。
人々の間に指針もなく、情念が渦巻いている混沌とした状況をどうにかするために、宗教家たちが信仰心を集め自身の宗派に取り込もうとします。異変解決の方針としては、失われた面の代わりに新しい希望の面を豊聡耳の神子が作ることで事態の収拾を図るという展開になるわけです。
そうなると、希望と宗教は切っても切り離せない話になってくるわけです。つまりまたいつもの怪しい話ですね。
パンドラの匣

パンドラの箱というお話は様々な解釈がされています。プロメーテウスの弟エピメーテウスと結婚したパンドーラーは、全ての災厄が封じられた匣を贈られ、好奇心からその蓋を開けてしまいます。中に封じられていた災厄は世界中に飛び去ってしまい、あわてて蓋を締めた箱の中には希望だけが残っていたというお話ですね。

プロメーテウスとエピメーテウスの兄弟は賢い兄と賢くない弟の対比になっています。プロローグとエピローグみたいなものです。やってみないとわからない弟は、兄から忠告されていた「ゼウスからの贈り物」を受け取ってしまいます。「全ての贈り物」という意味の女性であるパンドーラーと結婚したエピメーテウスのせいで、世界中に災厄が溢れてしまったと言えるかもしれません。男と女が結婚することで希望を手に入れ、世界は災いに満ち溢れる、と言うと怒られそうですね。家庭の幸福は諸悪の本らしいですけれど。
解釈は多様ですが、今回は太宰治の『パンドラの匣』の話に沿って考えてみたいと思います。つまりネタバレがありますが、およそ80年前の作品なので勘弁して頂きたいと思います。太宰治の作品は大体「青空文庫」で読めますので、未読の方はぜひ読んでみて下さい。素晴らしいストーリーテラーなので、今読んでも楽しめるかと思います。筆者は未見ですが、映画にもなっているみたいですね。
『パンドラの匣』のストーリーは終戦の少し前から始まります。主人公は病気で進学の機会を失い、確たる進路も見つからず、ただ目の前にある労働に従事しています。体に無茶な負担をかけ続けた結果喀血し、それから少し経って終戦の日を迎えます。喀血と終戦という出来事がきっかけで旧来の価値観が抜けてしまった結果、自らの状況を受け入れ療養生活に入るのでした。というのが小説の冒頭部分です。
どこを目指したらいいか分からない鬱屈した状態から開放され、茫然自失の後に希望を与えられてしまった物語です。与えられてしまったからには希望の指し示す方向に進むよりないというのが当面のモチベーションになるわけですが、最終的にどうなるかは実際に読んでいただいたほうが良いかと思います。主人公は愚かではありませんがエピメテウス的です。人間は無意識のうちに希望を手に入れてしまうことがあるというお話ですね。
感情線を走り抜けて

ところで感情を操る程度の能力って何ができるんでしょうか。操ることのできる感情とはどういったものなのでしょう。とりあえず4つ並べてみました。
最初のfeelingは実際に感じたもの、理性を越えた感覚と言えそうです。そもそも理性にできることは結構限られているのですが、それはそれ。身体を通して得られたリアルな感覚みたいなものでしょうか。
2つ目のsentimentは「感じて考えたこと」で、特定の集団に共有された傾向性というニュアンスがあるようですね。「女の子にはセンチメンタルなんて感情はない」というように、少女の感性はてんでバラバラということです。バラバラでいられるのは少女だからこそということかもしれませんが。
3つ目のpassionは周囲の環境によって引き起こされた感情であり、主体よりは状況のほうに視点をおいた表現かもしれません。元は「キリストの受難」を表す言葉であり、苦しみと関連する表現でした。主体の置かれた困難な状況とそれに伴う感情ですね。passiveという単語ができたように、受動的な側面が強調されています。遡ると、ギリシャ語のパトスになりますね。なんだか迸りそう。
最後にemotionですが、喜怒哀楽といった感情の型とそれに伴う表現と言えるでしょう。個人の感情というよりは、社会的に通用する形に整えられたそれといった感じがあります。ex「外へ」move「動かす」なので、自分の内部から外部に表現されたものですね。感情表現とは自分の状況を他人と共有するためになされるものと言えるでしょう。
つまり、エモーションの眼目は共有にあります。言葉ではなく心で理解してもらうために表現するわけですね。想いは形にしないと伝わりませんし、他人の内面は形になったものを手がかりにすることで理解できる気がします。
タイプとトークン

ゲームセンターではコインいっこで色々なゲームが遊べますね。社会に流通している硬貨には統一された規格があります。本物と偽物の見分けがつけられるように、高度な技術で作られた同じ形のものが大量に出回っているわけですが、どうやって同じものを大量に作っているのでしょう。
現代の貨幣は金属板にプレス機で模様をつけていますが、昔の貨幣は金属を型に流し込んで作られていました。元となる型をタイプ、出来上がったものをトークンと呼びます。鋳型と鋳物のことですね。鋳造は同じものをじゃらじゃら量産するのに便利な方法です。いや同じってなんだよって話ではありますが。
これを言語行為に拡張して考えると、言葉には実際に使われている「トークンとしての言葉」と、意味をもつオリジナル(原型)という「タイプとしての言葉」というレイヤーの区別がありそうな気がしてきます。言い間違いというのはエラーコインのようなもので、型に遡って考えてみれば意味はわかるじゃないか、という具合ですね。私達は言葉のタイプを共有しており、それらを音声(ノイズ)や文字(インクの染み)という形で表現(出力)しているという幻想です。勿論、言葉に意味はありませんし、世界に意味もありません。世界にただ一つの意味が定められるなら、誤解の生じる余地はないことになりますから、わざわざ言葉を使ってコミュニケーションを取る必要はなくなりますね。では実際に言葉を使っている私達って具体的には何をやっているんでしょう。
最初に言語という型があって言語行為が成立するのではなく、言語使用という実態から意味が発生すると考えたほうがよさそうです。つまりタイプとトークンの話は順序が逆で、バラバラの表現から同じものとして括れそうなものをまとめてタイプという概念で回収しているわけですね。タイプが機能するのは表現ではなく解釈の段階ということになります。
言語を使っている私達が共有しているのは、表現ではなく解釈のシステムということです。実行されているのは特定の入力に特定の出力を返すゲームであり、日本語話者とは「日本語ゲーム」のプレイヤーと言えるでしょう。「英語ゲーム」をプレイしている人とはシステムが異なるので通じないでしょうし、そもそも「ゲーム」をプレイしていない人とのコミュニケーションは困難です。
エモートとお芝居

感情の元になるものは自分の中で起こった「自分だけがわかるもの」ですが、感情表現とはそれを「自分以外にもわかるもの」に変換することです。「怒」という感情表現は「私は怒っています」という表現であり、「私は怒りを覚えるような状況に置かれています」ということでもあるでしょう。そこからどう展開するかは状況次第です。
ゲームをプレイしていると「エモート」という単語をよく聞きます。emoteという単語を見るとemotionの元になった単語かなと思ってしまうのですが、これは順序が逆ですね。エスカレーターとエスカレートみたいなものです。emoteは「emotionすること」つまり大げさに感情表現するという意味になります。余談ですが、発音は「エモート」よりは「イモウト」っぽいみたいです。妹はこいしちゃんですが。
所謂おじさん構文なんかは絵文字顔文字エモートの多用で感情表現が逆に読みづらい気がするのですけれど、文字だけよりも話者の伝えたい情報を詰め込めるので使われがちなのでしょう。勿論多ければいいというものではありません。「ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。」というやつで。所謂インスタ映えですかね。
目を大きく見開いて口を開けた表情は「驚き」と解釈されることが多いでしょう。人と別れるときには手を振ります。仏様を拝むときは合掌し、神様にお参りするときは合掌しません。各々の所作に特定の状況が紐付けられています。それらの所作をつなげたものが舞踊と呼ばれることもあるかもしれません。
私達の解釈システムに特定の順番で感情表現を放り込むことで、感情の軌跡としての物語が生成されます。表現されたものは文章かもしれませんし顔文字や絵文字かもしれません。それが身振り手振りや音楽を伴って表現されたものがお芝居であり、表現した人物を役者と呼びます。お芝居において役者と役柄は同一ではありません。役者は実在するかもしれませんが、役柄は空想上の存在で構わないのです。
亡失のプログラム

タイプとトークンの話で見たように、「百円」という価値について語ることができるなら、対応物としての「百円硬貨」が実在しなければいけない、という主張は成り立ちません。価値は「使用の実態」というシステムが生み出すものであり、実物の硬貨に由来するものではないからです。意味とはシステムが生み出した物語の枠の中でだけ通用するものであり、同じ役者が違う芝居で別の役柄を演じていても不思議はないわけですね。
つまり、「役者自身の感情」と「感情表現」は別物ということになります。こいしちゃんは表情豊かですが、それだけでは実際に感情がある証明にはなりません。というか心を閉ざした以上は感情も殆ど無いはずですし、実際ほぼ反射です。こころちゃんは無表情ですが感情があり、それを表現するための66のお面の集合体です。能楽が趣味で特技であるということは感情表現を通して他者と交流するということであり、その点でも他人に気づかれないこいしちゃんとは対照的ですね。
太宰治の小説『パンドラの匣』の最後には「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」という文章が出てきます。植物は意識して太陽の方向に成長するのではなく、ふと気づくと(無意識に)太陽の方に伸びてしまっている。身構えなくても、人は勝手に希望を手にして歩んでいくということです。価値観(システム)は後付けで構わない、と。
「やめなさいこいし、希望を他人から奪うのは」みたいな声が聞こえてきそうな気がします。実際こころちゃんは希望の面を失ったせいで具合が悪くなったわけですし。66の面という感情表現プログラムから希望の面だけ抜いたらバグるのは当然ですね。希望って成長で逆行禁止要素でしょうから、結構重要なパーツでしょうし。
いずれにせよ、再び希望の面を手に入れたこころちゃんはこれからどこに向かうのでしょう。陽の当たる方向には何があるのでしょうか。人々に希望を与えてくれるのは価値を評価してくれるシステム、つまり宗教です。だとするとその陽って、十七条くらいに分かれてそうな気がしますね。
高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十七回:無貌のパンドーラー #秦こころ おわり




