【連載】妖世刃弔華
妖世刃弔華【第13回 虜囚】
地獄鴉の霊烏路空が目を覚ましたのは、暗く、そしてひんやりとした空気の漂う空間だった。
平面の床に壁に天井。おまけに出られないように鉄格子がはまっている。
しかし、それだけですべてを何者かの手によって作られたものと判断するにはあまりにも広すぎる。
「なんだここ……」
空自身はそこまで思考を張り巡らせるには至らなかったが、元々存在していた空間――――地下空洞か何かを人為的に拡張した場所のようであった。
見知らぬ場所への不安から周囲の様子を窺おうと視線をさまよわせる空。
そこで不思議なものが目に映りこんできた。
薄闇の中に浮かび上がるのは淡い青色の光。天井や壁、そして床から光が放たれ、あるいは漂っていた。
眩さなどまるでない柔らかい光だが、なぜか見つめているとひどくもの悲しい気分になってくる。
灼熱地獄跡地に暮らしていた空としては、こんなに寒くて寂れた――――いや、何もない場所はどうにも苦手だった。
地上の人間や妖怪からすれば地下だって似たようなものだろうと言われそうなものだが、たとえそうであっても空には主人である古明地さとりや親友の火焔猫燐がいてそれなりに満足のいく日常を送れていたのだ。
しかし、ここにはその気配すらない。
「……ううん、今はそんなことどうでもいい。早く逃げ出さないと」
周囲への興味もすぐにどこかへ消え、自身の拘束を解こうと格闘をはじめる。
「くそ、なんなんだこれ……! 外れやしないし、なんでかわからないけど力も使えないじゃないか……!」
ついつい悪態が漏れ、空は慌てて口を噤む。
大きな声を出して気付かれるわけにはいかない。これは秘密の脱出作戦なのだから。
――――カツン、コツン。
ふと遠くから床を叩く音が聞こえてきた。
「……!」
長靴の踵を打ち鳴らしながら近付いて来る影に空は気付く。閉ざされた空間となっているため靴音が余計に反響して聞こえるのだ。
同時に、音の主が何者であるかを本能的に察した空はわずかに表情を硬くして動きを止めた。
「あら、思ったよりも静かにしてくれているようね」
冷え切った空間を突き抜ける凛とした声。
軍帽の下の空虚な深淵となった左の眼窩で怨念の鬼火を揺らめかせる亡霊兵団の首魁、ジェーン・カーネル・オウスティナと名乗る女の姿が薄暗い闇の中から浮かび上がった。
ちなみに、空はオウスティナの名前などまるで覚えてはいない。より厳密に言うなら彼女の頭ではとても覚えられなかったというべきか。
とはいえ、空にとっては“敵の親玉”で十分だった。
「出会った時の印象からじゃ、転げ回って叫びながら暴れていても不思議じゃないと思っていたけれど。それとも潔く観念したのかしら」
薄闇に溶け込むような黒衣を身に纏い、その上に羽織られたロングコートの裾が吹く風に小さく揺らめいている。
「……諦めたわけじゃないさ。勝てない相手に無茶して歯向かって殺されたんじゃカッコがつかないからだよ。わたしは自分を一撃で気絶させるような相手を侮ったりはしない」
二の腕と翼を白い糸のようなもので縛られ、上半身だけをぐるぐる巻きにされた空が、鉄格子を挟み憮然とした表情でオウスティナを見る。
顔を向けたというよりは睨みつけるような視線だったが、それを受ける亡霊たちの首魁に気にした様子は見受けられなかった。
むしろ空の感情になど興味がないといわんばかりの態度ですらある。
「地の底に隠れ住んでいた妖怪にしては殊勝な心がけだと思うわ。それは天命に従わぬ“土蜘蛛”どもの糸を寄り合わせて作ったものよ。この世界の地下にも似たような妖怪がいるようだけれど、その程度のものとはまるで年季が違う」
遥か遠くの場所へ思いを馳せるように、オウスティナは誰にともなく言葉を漏らすが、それを受ける空はいつの間にか目の前の亡霊に対して底知れぬ不気味さを覚えていた。
オウスティナは間違いなく空の目の前にいて言葉を交わしている。なのに、それとは相反してこの場にいないように感じられるのだ。
存在感が希薄といったことではない。この女は今自分がいる場所に何の興味も持っていないとしか考えられなかった。
実は虚無の闇からやってきた未知の存在なのではなかろうか。
「ふーん、そりゃよかったね」
難しい言葉を並べられても空には理解できないが、それでも目の前にいる相手がろくでもない考えで動いている存在なのは間違いない。
とはいえ、反論する言葉もオウスティナの不気味さが相まって罵声くらいしか浮かんではこず、空の返事は素っ気ないものに終わる。
「……それよりもここはどこなんだよ。こんな辛気臭いところに連れてきてわたしをどうするつもりなんだ?」
「逆に訊くけれど、それを素直に教えると思う?」
不安を紛らわせるように発せられた空の問いを、オウスティナは表情に感情すら浮かべることなく鸚鵡返しに訊き返す。
「……ないだろうね。いくらわたしでもそれはやらない」
(当たり前か……)
内心で溜め息を吐きだしながら空は思う。
幻想郷に住まう者たちは様々な能力を有しており、遠く離れた者と連絡を取る手段くらい隠し持っていないとも限らない。
こうして攫ってきた時点で殺すつもりがないのは明白だ。逃げ出さないよう警戒するのも当然のことと言える。
地上の妖精たちのように、ちょっと誘導してやれば自ら企みを口にしてくれるほど甘くはなかった。
(旧地獄じゃないけど……もしかしてそう遠くはない?)
周囲の雰囲気からしてどこかの地下ではないかとあたりをつけてはいるが、気絶させられている間に連れてこられた空には詳しい場所まで特定できそうになかった。
それにしても周囲を漂う青い光は何なのだろうか? こんなものは空もついぞ見たことがない。
「気になるようね。これは死者の魂よ」
オウスティナは近くを漂っていた光の玉をそっと掌へと乗せる。
そして、触れられた側もまた彼女に逆らう素振りは見せずむしろ委ねるように静かに輝きを放っていた。
「魂だって……?」
それにしてはおかしい。
旧灼熱地獄跡地に建てられた地霊殿で、管理の仕事――――天窓を開けたり死体を投げ込んだりして温度調節を毎日行っていた空にはわかる。
地上で季節問わず花が咲き乱れた異変は外の世界から大量の魂が流れ込んだからで、その幻想的でありながら美しい光景が広がっていたと聞き及んでいる。
「なぜこうも清らかな魂がこんな場所にいるのか不思議みたいね。彼らは魂が綺麗すぎるの」
掌の魂を虚空へ向けてそっと放してから空へと視線を戻すオウスティナ。
青白い顔にうっすらと笑みが浮かび上がるが、それでさえ直視していると背筋が凍り付きそうに感じられた。
「だから、わたしたちみたいに亡霊になることもなければ兵器と結びついて受肉することもない」
光――――形を失った魂へと向けられる視線。そこにはまごうことなき慈愛の感情がこめられていた。
「おまえ、やっぱり亡霊だったのか……」
「そうよ。現世への未練たらたらで死んでも死にきれなかった亡霊」
さすがに妖怪であってもここまで禍々しい見た目の者は滅多にいないだろう。眼窩の中で燃える炎を見て、まさか提灯の妖怪だとは思うはずもない。
しかし、そうであるならなおさらに妙だった。
この居心地の悪い空間のそこかしこに漂っている霊魂は、暗く冷えこんだ灼熱地獄跡地で見かけた怨霊とは似ても似つかない。
死して尚、不思議なほどに優しげな光を漂わせる存在が、なぜ生前の未練や恨みによって変化した亡霊などと共にいるのだろうか。
「でもね、彼らだって大事な“戦友”であることにかわりはないのよ。……わたしは、かならず彼らと一緒に帰ってみせる」
誰に向けたわけでもない言葉の意味するところは空にはわからなかった。
だが、それでも虚空を漂う魂の群れを見やるオウスティナの眼窩。そこで揺らめく炎から強い意志だけは伝わってくる。
「あなたには後々役に立ってもらわないといけないの。だから、大人しくしている限り危害を加えたりはしないわ」
逆に言えば、逃走を試みようものなら足や翼を切り落とすなりは容赦なくやってのけると、オウスティナの眼窩で燃える鬼火が如実に物語っていた。
素直に認めるのは悔しいが、彼女にはそれをやれるだけの実力がある。はっきり言って地上での出会いは戦いとすら呼べなかった。
「おまえ、いったい何者なんだ?」
ただ存在しているだけにもかかわらず、オウスティナの身体から漏れ出る鬼気を受ける空は怖気を覚えずにはいられない。
「さっきも答えたでしょう? ただの亡霊よ。名無しの女。知らないかしら?」
口唇の端をわずかに歪め、オウスティナは静かに笑みを浮かべる。
本来微笑と呼べるはずのそれが、なぜか空の背中に大量の汗を浮かび上がらせていた。
(はっきり覚えていないけど、前に会った山の神とはまるで違う。でも、なんなんだこいつは? ただの亡霊じゃない……! これ以上、話をしていたくない……!)
湧き上がる恐怖から視線を逸らしたくなる中で、空は負けじとばかりにオウスティナを懸命に睨みつける。
「……誤魔化すなよ」
「どういうことかしら?」
「あまり認めたくないけど、わたしはあんまり頭がいいわけじゃない。でも、そのわたしにだってわかる。こんな大それたこと、そんじょそこらの亡霊や妖怪にできるようなものじゃない」
精一杯の虚勢ではあったが、空はオウスティナに視線の刃を突きつけて問う。
「あいにくと、昔語りは嫌われるから趣味じゃないの。ただ、戻るべき場所と待っていてくれる人がいる――――いえ、いたからこそ長きに渡り戦うことができた者とだけ名乗っておきましょうか。あとはそうね……。然るべき時が来ればわかるわ」
そう一方的に答えると、オウスティナは踵を返し、ふたたび薄闇の中へと消えていく。
今さらながらに空はとんでもないことに関わってしまったと後悔していた。
地霊殿に帰って主人と親友に甘えてすべて忘れてしまいたい。そんな思いからか目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。