東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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【SS小説】三題話 ~ロスト・イン・レヴァリエ~

灯眼

お題

「書庫」「失う」「ラーメン」

イラスト

あとき

【三題話】「本の虫」

『三題話 ~ロスト・イン・レヴァリエ~』とは?

 イラスト、音楽、ゲーム――多種多様なジャンルが存在する東方二次創作。なかでも最も自由度が高いのは……活字。小説かもしれません。

 文字によって繰り広げられる無限の創造性と可能性は、私たちが知っている――あるいは、知らない幻想郷の世界へと誘ってくれます。

『三題話 ~ロスト・イン・レヴァリエ~』は、さまざまな東方二次創作小説作家がお送りする、東方Projectの二次創作SS(ショートストーリー)。毎回ランダムに選ばれた3つのお題テーマをもとに、各作家が東方の世界を描き出します。

 今回のテーマは「書庫」「失う」「ラーメン」。作者は灯眼さんです。

 

 

『本の虫』

 その部屋は広く、数えきれないほどの本が収納されている。四方の壁にある本棚にはさまざまな知識や物語を網羅した本が整然と並べられていた。その一部には鍵がかかっている。本棚は図書館のそれと比べても遜色がないほどに大きいが、それでも蔵書のすべては収まりきらず、部屋のあちこちに積まれていた。ほとんど足の踏み場もないほどである。うずたかく積まれた本の山の中に一匹の虫がいた。小指ほどの大きさで芋虫のような姿をしており、身体をよじらせながら山を登り、止まったかと思えば本をかじって穴をあけ、その中にもぐり込む。トンネルができたらそこを足掛かりとしてまた登りはじめる。くり返せばいずれ崩れるだろう。山頂は果てしなく高いが、虫はこれまでいくつもの山を踏破してきた。

 

 このところ稗田阿求は鈴奈庵に入り浸りであった。小さな椅子を借りて店の一角に陣取り、ほかの客の邪魔にならないようにひたすら本を読みふける。紙のすれる音と文字だけが阿求の認識するすべてであり、世界は閉ざされていた。昼時に店の看板娘である本居小鈴が傍らまでやって来た。彼女はお盆を持ったまま話しかけた。

「ねえ阿求、もうお昼だし一緒に食べよ」

 阿求はちらと視線をあげる。お盆の上には支那そばの入ったどんぶりが二つ乗っていた。しおりを挟んで本を棚に置く。「ええ」とだけ答えてどんぶりを受け取り、麺をすすった。醤油と鶏ガラのよい香りが鼻を抜ける。食感はうどんやそうめんとも違い、なんとも美味であった。幻想郷において支那そば、いわゆる日本式のラーメンは歴史が浅いが、それでも食堂のお品書きに名を連ねるほどの市民権は得ていた。両親が昼時に店を留守にしている日は、近くの食堂から出前を取るのが小鈴の習慣であった。

「おいしいね」

「ええ」

 昼餉が終わると阿求はすぐさま本に向きなおった。またしても読書に没頭する。

(そんなに面白いのかなぁ)小鈴はそう思い、本をのぞき見たが内容はわからなかった。とかく友人が何かに夢中になっている。それだけわかった小鈴は小さく満足して店番の仕事に戻った。

 

 あくる日も阿求は鈴奈庵に朝から晩まで居座った。文字の海に飛び込み、流されるままに物語を渡るという体験は得も言われぬ心地よさがあった。内容そのものに胸を打たれる興奮というよりは、あたたかな空気に包まれたまどろみの享楽に近いだろう。歴史がそうであるように、物語もまた果てがない。あらゆる本は一冊で完結しているように見えて、実際は数珠つなぎに連なっている。夢の続きを見るように新たな物語がはじまるのだ。それは小説に限らず、詩や論文も同様である。

 小鈴はまたもや出前を取り、昼餉を共にするとふたたび小さな満足を得た。ひとりの食事というのはさびしいものであるから、たとえ会話が少なくとも友人と食卓を共にすることは幸福であった。幸福はあくる日も、そのまたあくる日も続いた。そして同じことをくり返しているうちに小鈴は友人の異常性に気づきはじめた。

「ねえ今日も出前だけどまた支那そばでいいの? うどんとかもおいしいのよ」

「ええ」

 またしても同じ食事。飽きないのだろうかと小鈴は疑問に思った。

 事実、今の阿求の生活は常軌を逸している。摂取するものは最低限で、昼食と水分だけで過ごしていた。精神活動は読書のみであり、文中の言葉をとらえれば思考は勝手に巡るものの、深く考えることはできなかった。肉体にも兆候は表れた。顔がむくみながらも頬はこけている。肌も荒れていた。唇は乾燥し、若々しい色を失っている。典型的な栄養失調である。目だけがらんらんと光り、ひたすら文字をたどっていた。

 当然ながら阿求もこの異常な読書への欲求は自覚していた。活字中毒とでもいうのだろうか、とかく本を開きたくて仕方がない。文字がひたすら頭の中になだれ込み、文章の意味さえ咀嚼しきらないままにページをめくっていた。時間ばかりが過ぎていく。どれほど読もうとも知識が積みあがる感覚がない。文字の砂漠を、水を求めるように彷徨っていた。歩けども歩けども果てしなく、それはある種の心地よさでもあったが、漠とした不安の正体でもあった。飢餓感が阿求の内側に渦巻いていた。

 やがて阿求はその異常性の実態をつかんだ。ここ数日間で読んだはずの本の内容をいっさい覚えていないのである。阿求は一度見たものを決して忘れない。にもかかわらず、ここ数日の記憶はあいまいである。求聞持の能力を失ったのだろうか、これでは幻想郷縁起の編纂ができないのではないだろうか。自己が崩壊する恐怖が脳裏をかすめた。しかし猛烈な飢餓感の中にあっては、そのような得体の知れない感情は形を成さずに霧散する。さながら浮かんでは消える泡のようなものだった。焦燥を覚えながらも本をめくる手は止まらない。

 夕刻に魔理沙がやってきた。妖怪の仕業ではないかと思った小鈴が相談していたのである。魔理沙は阿求の尋常ではない様子を見るや否やこう言った。

「あー本の虫に憑りつかれてるな。私もやられたことあるよ。あんときは寝ずに魔導書を読みあさってたからなぁ」

 単語から記憶が想起される。時折、読書家の頭の中に住みついて本の知識をむさぼり食らう虫。しかし本来は不要な記憶を整理してくれる益虫であったはずだ。現状は暴走していると言っていいだろう。魔理沙は帽子越しに頭をかきながら続ける。

「虫下しの薬はあるんだが、どうもな、あんたの場合は専門家のほうがよさそうなんだよな」

 求聞持と転生による記憶の引継ぎの関係上、下手な対処をすると記憶喪失を引き起こしかねない。阿求も魔理沙も同じ考えであった。

「あ、えと、その専門家って?」と小鈴。

「虫の妖怪だ。話つけとくよ。格安で済むように」

 ともすれば阿求本人よりも不安げな小鈴を尻目に、魔理沙ははげましの笑みだけを浮かべて帰っていった。

 

 体力が尽きて椅子に座ったまま眠ってしまった阿求は悪夢を見た。書庫にぽつねんと取り残されている。本の山を登る虫は醜く肥え太り、その膨らんだ腹を波打たせながらも、なお山にかじりついている。その虫は己の顔をしていた。

 つかの間の眠りから覚めた阿求は読みかけの本に視線を戻した。肉体は憔悴し、思考もすり切れている。常にうつらうつらとしていた。食事、食事をしなければ身体が持たない。食べかけの支那そばをすすった。麺はのびているが食べなければ衰弱してしまう。そもそも支那そばばかりを無意識に選んでいたのは、食堂のお品書きの中では最も塩分濃度が高く、本に気をとられながらでもぼんやりと味を感じたからである。だが今はそれもない。食べたことすらおぼろげである。もはや食事は肉体の防衛反応であった。頭が回らない。それでも読まなければならない。本に視線を戻す。そこには海外の詩人が記したこんな一節があった。

『(民衆が)熱心に求めるのは,今や二つだけ:パンとサーカス.』※

 かつてローマ帝国の民が、国のことをいっさい気にかけず、食事と娯楽のみを心配するようになってしまったことをなげく詩である。

(パンとサーカス、支那そばと本、今の自分そのものではないか!)阿求は憤った。その怒りすらすぐに文字の洪水に押し流されてしまったけれども。

 それから少しして、魔理沙の紹介で虫の専門家であるリグルが訪問してきた。彼女は虫の知らせサービスと称して依頼者に虫を派遣する仕事をしていたが、そのほかに気乗りはしないものの害虫対策なども請け負っていた。小鈴はそのあきらかに妖怪じみた風貌に興奮しつつも、簡潔に事情を説明した。

「なるほどね」リグルはじっと阿求を観察し、目を閉じてしばらく本の虫と対話すると、断定口調で言った。

「うん、どうやら彼は大食漢のようだわ。でもあなたの乱読のおかげで結構満たされてきたみたい。もうすぐ変態するわよ。ちょっと記憶は飛ぶかもしれないけど、これなら羽化を待った方が早いわ」

 もうろうとした意識の中で、それでも阿求は納得したようだった。もう少し読めば終わりが見える。そう思うと俄然ページをめくる速度は増した。あいまいな微笑を浮かべるだけの阿求に代わって小鈴が不安げに聞いた。

「記憶が飛ぶってどういう……」

「大丈夫、本の記憶だけだから。彼、大食漢だけど悪食ではなさそうだし」

 それを聞くと小鈴は表情がゆるんだ。友人として過ごした時間が消えてしまうのではないかと気が気でなかったのだ。礼金を渡すとリグルは妖怪らしからぬほくほくとした顔で帰っていった。

 

 しばらく経ったある晩、阿求は頭痛を覚えた。脳を食い散らかされている感覚が痛みとして現れたのだ。気力で本のページをめくっていたが、とうとう意識が途絶えてしまい、屋敷に担ぎ込まれた。そして三日三晩、自室でひっそりと眠り続けてしまった。事情を知っている小鈴も泊まり込みで看病にあたったが、眠っているときの彼女の表情は、ゆりかごの中でほほえむ赤子のように不思議とやすらかだったという。

 言の葉を咀嚼しきった芋虫はついにさなぎとなり、いくつもの夢を見ていた。阿求もさなぎと一体化し、同じ夢を追想していた。そこでは人々のみならずあらゆる動植物、果ては神々さえもが姿を現し、手を取り合って踊っていた。が、時間が経つにつれ、その宴がいつまでも終わらないことに気づいた。するとこれが夢であることを認識した。まどろみが現実に侵食されるように、彼女の自我はさなぎの夢からゆるやかに遠ざかっていった。

 東雲の刻、ようやく目が覚めると、阿求の眼前には巨大な蝶がいた。射干玉ぬばたまの夢を見ていたさなぎがとうとう羽化したのだ。閉じた羽をゆっくりとひろげていく。和紙のような黄ばみがかった白と墨汁のような黒が主な色彩の羽模様は、わずかな動きでさえ万華鏡のごとくその印象を変える。水面にひろがる波紋のように、行灯の炎のゆらめきのように。物語で描かれた美麗な羽は鱗粉をまき散らし、障子越しの陽ざしを浴びてきらきらと輝いていた。

 阿求の頭はずいぶんとすっきりしていた。障子を開けると暁風が頬をなでた。新緑の庭はしんとしている。蝶は羽をはためかせ、庭の花木には目もくれず、茜色の空にきらめく明星に向けて飛び立った。

 遠くはなれていく蝶をながめていると、小鈴が部屋に入って来た。

「阿求、よかった。目が覚めたのね!」

 うれしそうに声をかける友人に阿求は感謝を込めて応じる。

「ええ、ありがとう小鈴」

 名前を口にした途端、大切な友人の記憶が残っていることに心底安堵した。リグルに大丈夫だとは言われたものの、記憶喪失に対する一抹の不安はぬぐえなかったのだ。とくに幻想郷縁起の内容に関しては伝承や物語が根幹にあるから、それらを食われていたら一大事である。さまざまな事柄を追想した。家族のこと、生活のこと、転生のこと、楽しかった思い出、縁起に記された情報、それらはまったく問題なく思い返せた。しかしながら今までに読んだ本の内容だけは忘れてしまっていた。阿求にしてみればはじめての体験だった。忘却とはかくもさびしく胸をしめつけるものであったか。が、存外すんなりと受け入れてもいた。すべて忘れてしまったのなら、これから読む本はすべて真新しくこの目に映るのだろう。

「さよなら。私の物語たち」

 蝶は朝の陽ざしに溶けて消え去った。阿求は深呼吸をした。肺に清々しい空気が満ちた。くうと腹の虫が鳴いた。

 

※(柳沼重剛編「ギリシア・ローマ名言集」岩波文庫,2003年,p154)