東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

     東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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【三題話】「カンヅメ阿求」

しじまうるめ

お題

「湖」「好奇心」「犬」

イラスト

あとき

【三題話】「カンヅメ阿求」

『三題話 ~ロスト・イン・レヴァリエ~』とは?

 イラスト、音楽、ゲーム――多種多様なジャンルが存在する東方二次創作。なかでも最も自由度が高いのは……活字。小説かもしれません。

 文字によって繰り広げられる無限の創造性と可能性は、私たちが知っている――あるいは、知らない幻想郷の世界へと誘ってくれます。

『三題話 ~ロスト・イン・レヴァリエ~』は、さまざまな東方二次創作小説作家がお送りする、東方Projectの二次創作SS(ショートストーリー)。毎回ランダムに選ばれた3つのお題テーマをもとに、各作家が東方の世界を描き出します。

 今回のテーマは「湖」「好奇心」「犬」。作者はしじまうるめさんです。

 

 

『カンヅメ阿求』

 稗田阿求にとってもっとも恐ろしいもの、それは原稿の締切であった。

 幻想郷で恐ろしいものといえば妖怪だが、遭遇しないよう気を付けることはできるし、いざとなれば対話もできる。神様や妖精だって、対応を間違えなければ被害は避けられる。

 だが、締切は違う。ものを書くことを生業にしている限り、これから逃れる術は無い。目の前に立ちはだかる締切という名の強大な魔王を、己が身ひとつで打ち倒さなければならないのだ。

 そして締切も守れない作家には、何の価値も無い。

 それは分かっている。十分に理解しているのだけれど。

「……小鈴、説明を求めても良い?」

「後でね」

 貸本屋の娘、本居小鈴のころころとした声は、高い天井と厚い絨毯に吸い込まれていった。先を歩く親友に尋ねてもはぐらかされるばかりで、阿求は閉口した。

「――お嬢様より、事情は伺っております」

 ふたりを先導するメイド長、十六夜咲夜は、里で見かけるときよりもいくぶんか凛としているように見えた。

 窓の少ない廊下。赤を基調にまとめられた調度品。

 部屋の中なのに、毛足の長い絨毯を靴で踏むのはおかしな感覚だ。そのうえにこの洋館には妖気が満ち満ちているのだから、阿求は落ち着いてはいられない。

 やがて廊下の突き当たりに、大きくて重そうな扉が現れる。

「図書館は自由に使って良い、との仰せです。あぁ、魔女が住み着いていますがお気になさらず」

「わー、ありがとうございます! 話には聞いてて、一度入れたらなーと思ってたんですよね」

「……小鈴、小鈴」

 はしゃぐ貸本屋を肘で小突く。

「やっぱり、どういうことか説明して」

「もう、うるさいなぁ」

 大仰な溜息とともに小鈴は振り返る。その眼力にぎょっとした。こいつ、こんな眼をする娘だったか。

「ぜんぶ、阿求が悪いんだからね。あんたが締切を守らないから」

 ぎくり。

 心臓をわし掴みにされたかのように、だらだらと冷汗が流れる。

 そんな阿求をよそに、巨大な扉はひとりでに開いた。

 少し埃の混じった、濃密な紙の匂い。立ち並ぶ巨大な書架。

 小鈴は小さく歓声を上げた。

「凄い、ここが、紅魔館の大図書館!」

「こちらへどうぞ」

 咲夜に案内されたのは、かつて使用人が住んでいたという図書館の隅の小部屋だった。レンガ造りで差し渡し五歩ほど、中には小さなベッドと、テーブルと椅子がひとつずつ。正面の小さな格子窓からは、薄霧に包まれた湖が見える。景色は紛れもなく日本の山のものなのに、洋風の小部屋から眺めると異国情緒すら漂ってくるから不思議なものだ。

 小鈴は椅子を引き、阿求に着座をうながす。

 こちらを笑顔で睨みつけるその目は、もう人間のものには見えない。まるで鬼のようだ、と阿求は考えて。

 次の言葉に、凍り付いた。

「――あんたをここで、缶詰にするから」

 

 遡ること一日。稗田邸にて。

「はぁ……」

 文机に真っ白な原稿用紙が一枚。

 その上に、ついに阿求は突っ伏した。頬と鼻に上質なつるりとした紙が触れる。目の前に転がる筆、その筆先では、黒々と輝く墨汁が今か今かと出番を待っていた。

 だがしかし、その出番はまだまだ先になりそうだ。

「書けない……」

 口からこぼれ落ちたのは、端的な、しかし絶望の四文字。

 稗田阿求、筆名をアガサクリスQ。幻想郷いちのミステリ作家である彼女はいま、人生最大のスランプの中にあった。

 大丈夫、明日はきっと書ける。そう自分に言い聞かせ続けるも、月日は無情にも過ぎていき、そしてついに。

「阿求様、お客人が」

「くっ……」

 女中の声に、最後の糸がぷつりと切れた。

 ついに、訪れてしまった。

 今日という日が。締切が。

 軽い足音を鈴の音とともに響かせながら、阿求の書斎へと一歩一歩、一切の容赦なくそれは接近する。

「――進捗のほう、いかがですか、先生?」

 小鈴は障子戸を開け放つやいなや、挨拶すら抜きに本題に入った。

 彼女と阿求は気の置けない親友であるが、小鈴が阿求を「先生」と呼ぶときは事情が変わる。アガサクリスQ作品の印刷製本を担う彼女は、締切を守護する鬼の編集へと化けるのである。

「今日のために彫師さんも摺師さんもばっちり手配しておいたわ。下読みは上白沢先生にお願いできることになったし。お客さんからの新刊問い合わせも日に日に増えてるのよ。ここらで一発でかいのをどかーんと――」

「無いわよ」

「……え?」

 両手を天へどかーんと突き上げた格好のまま、小鈴は凍り付いた。

「いま、なんて?」

「だから、無いの、原稿」

「無いって、どういうこと?」

 編集者の声色はどんどん冷え込んでいく。

 どういうことなのかは私が一番知りたい。阿求は喉元まで出かけたその言葉をなんとか飲み下した。

 スランプだ、などと他人には口が裂けても言いたくない。この御阿礼の子が、古今東西の名著が頭の中にぎっしりと詰め込まれているはずの求聞持が、よもやスランプだなどとは。

 アガサクリスQの矜持はすでにボロボロである。

 だが、それでも、締切は容赦などしてくれない。

 ならばもう、次に打つべき手はひとつしかない。

――締切を、延ばしてもらわないと。

「あ、あのね小鈴。ちょっとお願いが」

「先生がその気なら、こちらにも考えがあります」

 般若が、もとい本居小鈴が一歩を踏み出す。阿求は同じだけ後ずさる。逃げ場などない書斎で、無駄な逃避だと分かっていても、憐れな作家は反射的に動いてしまう。

「ね、ねぇ。あと三日、いや四、えーっと、五日もあれば」

「しれっと伸ばすな! あんたから原稿受け取るまでは帰らないからね」

「そんなぁ。ずっとこの部屋にいたんじゃあ逃げられな、いや執筆なんてとてもとても」

「あら、環境が悪いと仰いますか、先生。それなら私に妙案がありましてねぇ」

 小鈴は見たことがないくらいギラギラしていた。真夏の太陽みたいだった。

 その強い圧に、力なく項垂れる。締切を破った作家に、抵抗の権利などあるはずもなかった。

 

 原稿が上がるまで、作家を部屋から出さない。

 この横暴は、一般的に『缶詰』と称される。非人道的行為だが、締切を破る作家は人と見なされないから誰も気に留めない。外の世界では、旅館などでこの軟禁が行われていると聞く。幻想郷においては、人里離れた紅魔館は、たしかに缶詰には最適な場所のひとつと言える、のかもしれない。

(……っ)

 遠のきかけた意識を、全力で引き戻す。

 小鈴はといえば、いつの間にか小部屋から姿を消していた。

 無理も無い。ここまでのわずかな道のりの間にも、他でお目にかかれるかどうか分からない稀観本がずらり並んでいたのだ。ビブリオマニアの彼女にしてみれば、四方八方から好奇心をくすぐられっぱなしだろう。こちらとしても、ずっと背中を見つめられていたくはない。

 ひとつ大きく身体を伸ばして、阿求は再び原稿と向き合った。

――筆を少し、走らせる。

――どこかで見た気がする文章を、丸めて捨てる。

――筆を少し、走らせる。

――どこかで読んだような物語を、破いて捨てる。

 吹けば飛ぶような、埃より軽いものしか出てこない。こんなものは発表できない。アガサクリスQの作品は、私の作品というのは、どっしりと地に足を着けて立っていたはずだ。

 こんなつまらないものを。

 こんなつまらないものが。

 こんなつまらないものしか!

 どのくらい虚無を繰り返しただろうか。ふと顔を上げると、湖は夕日で赤く染まっていた。自分の血が一滴残らずあそこまで漏れ出したせいで、身体の中が真空になっているのだと思った。

 空っぽのまま、阿求はふらりと立ち上がる。このままふわふわと浮かんでいってしまいそうだ。歩く、というより足の裏を世界になんとか引っかける。

 彷徨い出た書架の森は、小さな迷子を見下ろしてくすくすと笑っていた。わずかな魔法灯だけがぼんやりと図書館通路を照らしている。

 書架越しの光を、自然と追っていた。光源へ、光源へと、灯に集る虫みたいに。

「……あ」

 そしていつしか、図書館の中心部にたどり着いていた。

 幾重もの同心円を構成する書架、その中心に、台車に載せれば祭の夜に曳き回せそうなくらい巨大な書斎机。

 大図書館の主、パチュリー・ノーレッジは、そこで本に埋もれて座っていた。彫像のように不動のまま、その腕の中でぱらりぱらりと、ひとりでに本がめくれている。

 ここに彼女がいることは、神社に巫女がいるくらい当然である。そういえば挨拶もしていなかったが、動かない大図書館にその非礼を責めるそぶりは無かった。

「――あの犬、また妙な客をこちらに寄越したのね」

 こちらに一瞥すらくれないまま、魔女が呟く。

「犬? 見かけませんでしたけど」

「あのメイドのことよ。猫度がぜんぜんだから、犬」

 ただ本を読んでいるだけのパチュリーだが、不思議と威圧感があった。映画館のスクリーンの真下に立ったときのことを思い出した。

 一帯に声を伝える魔法がかけられているのか、パチュリーの囁く声が耳元で響く。

「何しに、ここへ?」

「えっと」

 答えるかどうか迷ったのは、ほんの一瞬だった。

「……缶詰にされてるんです、私」

 気が付けば、阿求はすべてを包み隠さず話していた。普段ならあり得ないことだった。妖怪相手に、弱みを見せるなど。

 そのときの阿求には、魔女がまるで神様のように見えたのだ。膨大な書物を猛然と読み続けるパチュリーは、本を書く阿求にとっては、信仰すべき相手なのではないか。そんなことを考えてしまった。

 書くことができない。

 ちっとも面白くない。

 最後はまるで縋るような声で叫んでいた。愕然とした。空っぽのはずの自分から、まだこんな感情が湧いてくるなんて。

 ふと、パチュリーの手元の本が停まる。

「それじゃあ、もう貴方は書きたくないの?」

「え……」

「書きたくないのなら、帰って。レミィが許可したんだかなんだか知らないけど、勝手にここを使われるのは迷惑よ」

 魔女の小さく薄い声は、しかし針のように鋭い。

「作家なんて辞めればいい。作家は食料や家を作るわけじゃない。怪我や病気を治すわけでもない。作家がひとり残らず消え失せたって、誰も困らない。いつだって、辞めたいときに辞めればいい」

「でも……」

「でも」

 はじめて、紫色の視線が阿求を貫く。

「でも、どんなに苦しくても、辞められないんでしょう。それならもう、諦めなさい。貴方は呪われてしまった。貴方はきっと、無意味でつまらないものを無数に生み出す。自分には才能も価値も無いんだってことを、嫌ってほど思い知らされる。たまにいるのよね、そういう可哀想なやつが」

 読まれている。

 そう錯覚した。魔女はまるで本を読むかのように、こちらをじっと見つめていた。

「だけどね、呪いの犠牲者が泣きわめきながら書き殴った、たった一節のみそっかすみたいな文章が、ひとを救うこともある」

「そんな気休めはいいんです。どうせ書くなら、もの凄いものを書きたい。世界が震撼する物語を」

「物語を書くのは作家じゃないわ。世界よ。世界がひとの筆を借りて、本という形に魂を吹き込むの。作家なんてものは物語の依り代に過ぎない。巫女が神をその身に降ろすのと同じこと」

 暗がりに、光が点る。

「だからこの世に無数の本が生まれるの。この大図書館を百も千も埋め尽くして、なお余りあるだけの本が」

 ひとつがふたつに、ふたつがよっつに。魔法灯のオレンジがかった光が、地平の先まで続いていそうな書架の列を浮かび上がらせる。

 うわっ、と驚く小鈴の声が、向こうのほうで聞こえた。

「さぁ、呪いとともに生きていく覚悟を決めたなら、書きなさい。世界は筆を持てない。だから誰かが代わりに書くしかないの」

 違った。ちっぽけな作家の勘違いだった。

 パチュリーは、読者は、神ではなかった。

 あれはもっと、傲慢で、強欲で、獰猛な。

「もっともっと本を寄こしなさい。私の図書館が、世界ではちきれるくらいにね。それを貴方が書くっていうのなら、ここにいることを許可してあげる」

 阿求は頷いた。頷くことしかできなかった。

 ふらふらと机まで戻る。いま見たものが夢なのか、それとも現実なのか、もう分からなくなっていた。筆を手に取る。文章が泉のようにこんこんと湧いて出る。そうか、これを私がせき止めていたんだ。阿求は喜ぶでもなく、悲しむでもなく、ただその事実を理解した。

 

 数週間後、鈴奈庵より発売されたアガサクリスQの新刊は、これまでとはまったく違う作風で読者を困惑させた。小鈴ですらも少し変だと感じたものの、売れ行きは好調だったので黙っていた。

 そして阿求は、今日も元気に呪われている。