「何かが2人を分かつまで それまでは2人でひとつなの」東方アレンジ楽曲レビュー『境界観測 The Border Observation』/石鹸屋
東方アレンジ楽曲レビュー『境界観測 The Border Observation』
2人を分かつもの、それは何か?
ではその「何か」がなければ、どのようにして「ひとつ」になるのだろうか?
それが、この「境界観測」のテーマである。
なぜなら、2人は2人だから。2つに分かたれるから、2人なのだ。
そこには一見曖昧だが明確な境界がある。自と他という、明確な境界だ。
蓮子とメリーはその境界を超えることができるのか? 僕たちはこのアルバムを通して、2人の行方と結末を見守ることになる。
コンセプトアルバムという枠を超えている。これはもう、音楽小説と言えるだろう。音と言葉で描かれる秘封小説なのだ。
Tr.01 デカルトの向こう側へ
『シュレディンガーの化猫』のアレンジで「デカルトの向こう側へ」というタイトルを選んだのは、極めて秀逸だ。
「自と他の境界」という視点で見れば、デカルトほど良い題材もない。
デカルトの有名な言葉「cogito ergo sum」。ラテン語で「我思う、故に我あり」という意味だ。
この言葉は曲中でも歌われている。これは、全ての存在を疑ってもなお「全てを疑っている自分は確かに存在している」という考え方だ。私が私であるために必要なのは「我思う」ことである、というのがデカルトの理論。
いわば「自と他を明確にする」思想だ。
余談だが、デカルトの思想といえば“物心二元論”もある。
物理的な延長を持つ物体と、延長を持たない精神の2つを、異なる領域として定義したのだ。もっと言うと、その2つを決して交わらないものとした。物体から心的なものは生まれないし、精神はモノへ影響を与えることができない。
お察しの良い方はもうおわかりだろう。
宇佐見蓮子は超統一物理学、マエリベリー・ハーンは相対性精神学を専攻している。つまりこの2人は、デカルトの理論によれば交わることのない対象を互いに研究している。「デカルトの向こう側」というのは、そんな意味も含むのではないかと、想像してしまう。
まだ「デカルトの向こう側へ」の予備知識だ。公式サイトの情報だけでここまで書ける。曲の話もしよう。
ノリノリだが怪しげで地を這うようなうなりを上げるギター、そのサウンドにまとわりつくようにメロディを奏でるベース、そして石鹸屋の代名詞ともいえる、パワーのあるバスドラム。
この曲は蓮子の感情を示した曲であると、僕は考えた。
cogito 観測不可能な猫でありたくはないの
生きていても死んでいても 最初に貴女に見つけてほしい
私を確定してほしくて 手を伸ばすの ergo sum
ヨコシマだと自覚しても 貴女もそうならいいと願う
これはサビの歌詞だが、赤文字がデカルト的な歌詞、青文字がシュレディンガー的な歌詞だ。
「デカルトを超えるため」にシュレディンガーを用いるのは、超統一物理学(まぁ未来の物理学なんだろう)を学ぶ、蓮子らしい選択だろう。
蓮子の覚悟と願いが伝わってくる一節だ。
そして僕はこの曲をヘビロテする。
電車の中でも、コンビニに行くときもずっと聴く。
何度目のリピートだろうか。僕はあることに気づく。
なんか違う音入ってない?
「貴女」「君」の部分、よく聴くとコーラスでもなくボーカルが重なっているのだ。よく聴くと、「貴女」には「君」が、「君」には「貴女」が重ねられている(気がする)。
デカルトの向こう側へ
2人で向こう側へ
このテーマを描くために使われたこの表現技法。音楽ならではである。
「貴女」に観測されて確定する私。
「君」に観測されて確定する私。
わざわざ「重ね合わせて」歌っているのが極めてシュレディンガー的で素晴らしい。改めて音楽の魅力を痛感させられる一曲である。
Tr.02 ボーダーライン
境界観測と名付けられたアルバムにおいて、「ボーダーライン」という曲は極めて高い重要性を持つ。
そして、これは極めて重要ではない情報なのだが、僕は「少女秘封倶楽部」が大好きなので期待せざるを得ないのである。
イントロが始まる。原曲を適度にアレンジしたメロディが、残響感を残しながら入ってくる。あの美しいメロディがこうなるのか! 初手でEpicを叩き出してくる。
Aメロ。原曲では天にも昇る勢いで音階を上げるピアノをボーカルで合わせてくる。ここもEpicだ。
サビ。あぁ……そのメロディをサビに持ってくるか……! ここまで原曲の流れに忠実にアレンジしていたのに、サビはごっそり別の場所から持ってきた。にくいことをする。少女秘封倶楽部のサビと言えばあのメロディだ。文章で表せないのが悔しい。しかし、なるほど……! そう来るか……!(オタクスマイル)
アレンジとしての概要をここでざっくり書いたのには、1つの理由がある。
この曲のクライマックスは、2番サビ終わりの「掛け違えてしまったボタンを」から始まるからだ。
知りたくなくても見えてしまった
掛け違えてしまったボタンを
掛け違えてしまった2つのボタンはどうなるのか。一瞬だけ楽器が消え、ボーカルのみになる演出が際立つ。
「来る」。その感覚を鮮烈に与える瞬間だ。
そしてギターのエフェクトがこれでもかと「境界の向こう側」を描き出す。「境界を超えている」2人を見事に表しているようだ。
しかし、ボタンは掛け違えられてしまった。
このあとのサビは切ない。コーラスがまるで「ひとつになれなかった2人」を表しているかのようで、切ない。秀三の声だからこその表現ではあるのだが、これがもしも原作にCVが着いているキャラソンだったら、泣いちゃう。
掛け違えたボタンは、互いに寄り添うように、でも明確に交わることなく、歌詞と音で表現されていて――
こういうことなんだな;;
この曲だけ長くなってしまって申し訳ない、ないんだけど! 少女秘封倶楽部のオタクとしては、やはりアウトロを語るべきだろう。「べき」とか言っちゃってごめん。正直に言う。
余韻の話をさせてくれ。頼む。
原曲の終わり方は、サビが繰り返されながら次第にフェードアウトしていくという終わり方だ。まるでそれは秘密を暴きに行く2人を見送るようだ。そうして僕は思う。「あぁ、僕は永遠に、この2人を見守っていくのだな」と。だから僕は、少女秘封倶楽部が好きなのだ。
対して「ボーダーライン」は、カットアウトして終わる。パッと終わるので違和感すらある。もちろん、構成上サビのメロディラインが違うために、原曲のような繰り返しができないということもあるだろう。
しかし、しかしだ。この終わり方はまるで、掛け違えてしまった2つのボタンの行方のようではないだろうか。
それは終焉。秘封倶楽部の終焉なのだ。蓮子がメリーを観測できない世界線。それは秘封倶楽部の終焉だろう。
僕の主観では、原曲は秘封倶楽部の旅立ちを見守る曲だったが、こちらのアレンジでは秘封倶楽部の終焉となってしまった。旅立ちの曲のアレンジで、終焉が描かれる。だからこその、フェードアウトに対するカットアウトなのではないか。
そんな強烈な余韻がエグい。僕は秘封倶楽部の行方を見守るだけでよかった。ただそれだけでよかった。でも今はそれすらもできないのだろうか? 余韻が僕を苦しめる。
そう、僕には見守ることしかできないのである。正確には“聴き守る”ことしかできないのだ。この強烈なカットアウトの余韻に苛まれながら。
Tr.04 終わる現実と、遥か後方の
ネクロファンタジア。
このアルバムにおいてこの曲を扱うのは、単にマエリベリー・ハーン=八雲紫説を唱えるだけにとどまらない。僕だって最初はそう思った。はいはい、メリー=八雲紫説ね。あるある。みたいな。
甘い。(自戒)
そんな侮りはたった一節で打ち砕かれる。
暴かれる側になってしまった
この一節である! 主体が完全にメリーであるなら、暴く側だろう。メリー=八雲紫ならこんな発言はしない。つまり、メリーと八雲紫が混在しているという解釈なのだ。
個人的な解釈を加えていい? 勝手に解釈するね。(強引)
「デカルトの向こう側へ」で蓮子は、デカルトを超えるためにシュレディンガーの理論を選んだ。シュレディンガーの猫とは、生と死が重ね合わせの状態で存在しており、「観測されて初めて生か死が確定する」という思考実験だ。
つまりこれもそう。マエリベリー・ハーンと八雲紫が重ね合わせの状態で存在していることを示す一節なのだ。つまり、今、蓮子が観測すればまだ間に合う!! そんな希望が残った一節なのだ。
その希望は別の箇所からも伺える。
ゆらぎ ゆら 揺れる ほうける意識
そして私はゆらぐ
いつまでもゆらいでる
きっと 溺れるまで
そう、このメリーと紫の重ね合わせの状態は「ゆらいでいる」。量子論における「ゆらぎ」。それはハイゼンベルクの不確定性理論を彷彿とさせる。
「少女秘封倶楽部」のアウトロを聴いたあの日から、僕は見守ることを決めたのだ。僕は決して彼女らに干渉することはない。ただその行方を見守るだけ。それだけでいいのだ…。
でも、願うことはできる。
僕は願っている。2人がまた秘封倶楽部になることを。メリーがメリーとして観測されることを。
あなたが観測してくれる世界へ
この世界線であることを。
Tr.07 ありふれた匿名のダイアリー
石鹸屋の描く秘封小説の後編。この“匿名のダイアリー”こそが後編のキーワードとなる。
2人が書いた博物誌。それがこのタイトル通りの、匿名のダイアリーなのである。僕たちに中身を知ることはできないが、おそらく博物誌よりも日記に近いものなのだろう。
2人に残された、2人が秘封倶楽部だったことの証。それがこの博物誌であり、匿名のダイアリーなのだ。
後編は、この匿名のダイアリーを巡っての想いが綴られる。
消えてしまったメリー。でもメリーがそこにいた証は存在している。それがこの「匿名のダイアリー」だ。
そんな悲しい物語。
余談だが、オタクとは穿ったものが大好きな生き物である。こんな悲しい展開にすら穿った見方をしてしまうのだ。
この陽気なサウンド……。明らかに「秘封倶楽部が終わってしまった」かのような2曲に続いてのこの陽気さ……。
蓮子、この状況すら「不思議」として楽しんでね?
どう考えても悲しい物語だったはずだ。
いや、普通に考えて悲しいお話だと思うよ? メリー消えちゃうんだもん。最後の一節だって、それを示していると思う。
でも、メリーを失った悲しみと、それすら不思議として楽しむ蓮子が重ね合わせで存在してないか?
つまり、蓮子はまだ「秘封倶楽部」であり続けているのではないか?
……もちろん「観測」するのはリスナー自身だ。貴方に委ねられる。でもどこか、陽気な雰囲気を感じ取ってしまうのは僕だけだろうか?
そしてそれこそが、宇佐見蓮子らしさであると思ってしまう。
また不思議を暴きにいく日々が始まる。ただ、その対象がメリーになっただけなのだ。
そして秘封倶楽部はまだ存在する。
ここに「匿名のダイアリー」がある限り、それが2人がいた証なのだ。
Tr.08 月と星の蓮台野へ
僕たち東方オタクは「ボーダー」とか「境界」という言葉を安易に使いがちだ。この曲は「ボーダーライン」という言葉の可能性を、極限まで追求している。
なぜなら2人はふたりだ。「ひとつ」ではない。そこには、一見曖昧だが明確な境界があるのだ。自と他という明確な境界だ。冒頭で話したこの内容が、最終的にはこの曲につながっている。
蓮子とメリー。二人として表現されるうちは、そこに必ず境界が存在する。
まさにそれを描いたのが、最後のサビだろう。耳で聴いた歌詞をここに記すと以下のようになる。
だけど変わらないボーダーライン
ずっと眺め続けてる このおかで
ずっと変わらないボーダーライン
ずっと変わらないボーダーライン
石鹸屋は、この三つの「ボーダーライン」に結末を、蓮子の願いに結論を下したのだ。
だけど変わらない何かと誰か
ずっと眺め続けてる いつかの観測値で
ずっと変わらない1+1≒1
ずっと変わらない と
あ、死ぬ。
死んだ理由は少女秘封倶楽部のアレンジで歌われるからだけではない。「ボーダーライン」と同じメロディラインで「ボーダーライン」と歌われることの重みで普通は死ぬのだが、常人はこのルビで二度死ぬ。
「 と 」。並列される限りそこには「ずっと変わらないボーダーライン」が存在するのだ。それは蓮子とメリーであろうとも。どれだけ近づいても、どれだけ秘封倶楽部が密であろうとも、2人はふたり。「蓮子“と”メリー」である限りは1+1≒1。決して=1にはならないボーダーラインが存在するのだ。
何かが2人を 分かつまで
それまで2人は ひとつなの
確かにふたりは分かたれてしまった。
しかしメリーの目からは、最初から分かたれていたのである。
これが結論。これがボーダーライン。
;;
最後に
僕たちは、自分以外のあらゆるものとの境界に囲まれて生きている。それはまさにcogit ergo sumなのだ。自分以外を不確かなものとして「境界線を引く」思考法。
それを「互いに観測しあう」ことで越えようとした蓮子と。
不変の境界の向こう側へ行ってしまったメリーの物語。
メリーの方はわかりやすいが、蓮子の考えは少し補足しなければならないだろう。「他の存在によって観測されることで”私”が確定する」。逆も然り。これが「デカルトの向こう側」である。
つまり、自と他は互いに絡まるようにして存在しあっている。
思えば「秘密を暴く」ことも、言い換えるなら「不確定な事柄を観測して確定させる」ということである。もしかしたら秘封倶楽部の核心に迫るテーマなのかもしれない。このテーマを音楽という手法でどう表すか? ここが本作の魅力だろう。
「デカルトの向こう側へ」で歌われていた
「貴女」と「君」。
文字で記すとどこまでも交わらない
「貴女」”と”「君」。
しかし音楽なら、この2人を交わらせることができる。同時に歌うことで限りなく交わる。重ね合わせて歌うことで、聴者はそれぞれを「観測」できる。
「ボーダーライン」で掛け違えたボタンのように交わらないコーラス。文字にするとくどいが、音楽なら美しく(そしてこの展開だと悲しく)調和する。
「月と星の蓮台野へ」で歌われた「ボーダーライン」のルビ。特に「 と 」を「ボーダーライン」と歌うことは、聴いたことと書かれていることの違いに驚かされる。音楽ならではの表現だろう。
だから、石鹸屋のアルバムは音楽小説なのだ。小説ではできない表現があって、それをテーマに見事合致させる。音楽だからこそできる表現がいくつも隠されていた。
だから、僕はこの音楽が好きなのだろう。
この記事の大半は僕の憶測でしかない。でも、憶測だとしてもこれだけの興奮や発見や感動が隠されているのだから、音楽というのは偉大だ。
そして、作り手はどう表現しても良いし、受け取る側はどう観測したって良い。だから創作は美しいし、そんな創作が持つ美は決して侵されてはならない。その自由さ(不確定性とも言える)は、無限無数の観測可能性を秘めているからだ。
コーラスひとつに「これは蓮子とメリーの…!」なんて言ってるのは、世界で僕だけかもしれない。でも、その観測可能性があるから、創作は面白いのだ。
今回は石鹸屋の秘封倶楽部アレンジ「境界観測」をレビューした。ここまで読んでもらえた方には、このアルバムが「単なる音楽ではない」「単なる歌詞ではない」ことがわかってもらえているとうれしい。
そして、それらが複合した石鹸屋の秘封世界を観測してもらえることを願っている。
僕はずっと秘封倶楽部を見守ってきた。そしてきっとこれからも見守っていくのだろう。
これが秘封倶楽部。これが2人。これが創作。これが石鹸屋。そんなアルバムだった。
作品情報 「境界観測 The Border Observation」
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