「『女の子ダイヤル』は東方アレンジの未来を拓くのか」東方アレンジ楽曲レビュー『女の子ダイヤル』/フーリンキャットマーク
東方アレンジ楽曲レビュー『女の子ダイヤル』
純粋経験。
あぁ^〜鳴紗の声で脳が蕩けるんじゃぁ^〜
僕の解釈が正しければ、昭和の哲学者・西田幾多郎はこれを「純粋経験」と称した。分析よりも先に入ってくる経験。
優しい音に包まれて鼓膜に届く鳴紗の蕩けるボーカル。純粋経験だわ、これ。
うんうん、IQが日本円並に下がっていくのがわかるぞ。幸福指数はIQ低いほうが素直に感じ取れる。つまり幸福度の高い一曲。
いつまでも純粋経験に浸っていると、本当にIQが2くらいになってしまいそうなので、少しIQを戻し、もう一度聴いてみる。
あぁ^〜(以下略)
んう~~ダメだこれは。モルヒネ出ちゃってんだわ。脳を慣れさせないといけない。こうやって人は電子モルヒネ中毒に陥っていくのである。
あぁ^〜(以下略)
あぁ^〜(以下略)
あぁ^〜(以下略)
あぁ^〜(以下略)
あぁ^〜(以下略)
あぁ^〜(以下略)
――(1日経過)――
これって東方アレンジなの?(哲学)
「女の子ダイヤル」って東方アレンジなの?
この問題は根深い。「声」に脳を奪われ続けてきたが、「言葉」に耳を傾けると全く東方ではない。
藤原妹紅は電話しない。妹紅のパパは輝夜に……は、有名な話。タルトってなんやねん、ここ幻想郷ちゃうんか。
「『月まで届け、不死の煙』のアレンジなら、妹紅の歌だろ」というスタンスで聴くと、こうなってしまう。でも、原曲にはかなり忠実にアレンジしている。その点は間違いなく東方アレンジだろう。
脳を蕩かせている場合ではなかった。僕は大きな問題に直面している。
東方アレンジとは、どうあるべきなのだろうか? フーリンキャットマークの楽曲は、その新境地を見せているのではないか?
楽曲はアキシブ系だが、その中身に東方アレンジにおけるパンクの精神を僕は見る。
東方アレンジへのスタンス
東方は難しくなりすぎた。もっと気楽に楽しんで良いはずだった。設定や歌詞の考察、そこから広がる無限の解釈、それが東方アレンジを支配してしまった。(もちろん、そういうのもすごく楽しいよね)
ボカロ楽曲だって、最初はボーカロイドのキャラクター性に焦点を当てたものばかりだった。
「みくみくにしてあげる♪【してやんよ】」はその最たるものだし、誰もが知る「メルト」だって投稿時のタイトルは、「初音ミク が オリジナル曲を歌ってくれたよ『メルト』」なのだ。「初音ミク」が主語として置かれている。しかし今や、そんな「初音ミクが」みたいな曲の方が珍しい。
比較的早い段階で、初音ミクは“ボーカル”としての位置に落ち着いた。つまり、楽曲性に自由が生まれたのだ。ボカロ曲の縛りは一つ。「ボーカロイドを使う」のみである。
東方アレンジだって、それくらいの自由さがあって良いのではないだろうか。1970年代、難解になっていくロックに対するアンチテーゼとして、パンクロックが生まれたことと同じ様に。もしかしたらそれは「もっと単純なコードでいいじゃん、楽しくやろうぜ」くらいの感覚だったのかもしれない。当初は。
もちろんフーリンキャットマークは、パンクロックではない。しかし、東方アレンジとしてはパンク的な精神を東方に持ち込んでいる。
僕がこの曲を聴いた時の純粋経験は「脳が蕩ける」であった。
東方アレンジのルールは東方原曲のメロディが使われていることだけでいいのではないか。そのシンプルなスタンスが「脳を蕩かす」楽曲を作り上げたのだ。何を言ってるのかわからないと思うので、ちゃんと解説しよう。
30代一般男性は女の子の世界を見るか?
さて、前置きが長くなったが楽曲について語らなければならない。が、ここで僕は我楽多編集部に1つ提案したい。30代一般男性よりも女性にこのレビュー書いてもらったほうが良くない?????
編集部には耳を傾けてもらえなかったのでそのまま続ける。「女の子ダイヤル」は、楽曲としてはいつものフーリンキャットマークらしいテイストだ。渋谷系サウンドにちょっとアニメ・ゲームソングっぽさが入ったような、通称「アキシブ系」と呼ばれるジャンルだろう。
そんな本曲の特徴としては、あまりにも女の子すぎるのだ。キラキラしたサウンドが、ところどころ電話の音が、柔らかく可愛らしいボーカルを際立たせ、女の子で溢れている(突如入るEarth, Wind & Fireを感じさせるフレーズですら、女の子らしくなっている)。
それはまさに、僕から見たら、女の子の世界なのである。
一度考えてみてほしい。
永夜抄をプレイして、永琳と輝夜を倒して、EXTRA道中を越えてやっと聴けた「月まで届け、不死の煙」。この曲のアレンジで、まさか「ピポパぷるる」なんてワード、出ると思いましたか? やっぱ東方アレンジってすごいよ、すごいよな? なぁ、聞いてるかい昔の俺。「ニュークレラップ」より上が来ちゃったよ?
30代一般男性というのは、女の子から程遠い。だからこれが、本当の女の子なのかはわからない。わからないが、僕は確かに感じるのだ。「女の子の世界」を。
ゴリッゴリに「女の子の世界」を作り上げた楽曲、それが『女の子ダイヤル』だ。
事実として女の子かどうかは、この際関係ない。「フーリンキャットマークの世界における女の子」がここに詰まっている。だからこそ良いのだ。
可愛く柔らかなパンク
先に断っておくが、フーリンキャットマークの作る全ての曲が、東方の文脈を無視しているわけではない。しかし、フーリンキャットマークの多くの曲は、僕たちが想像する「東方アレンジ」のイメージを軽々しく飛び越えていく。
例えば「竹取飛翔 ~ Lunatic Princess」のアレンジ『moon light magic~メイシャライトマジック』では以下のように歌われている。
Party night party night 夢の中へ 連れて行ってよねえ
魔法使いになれるの そうよ 思いのまま
竹取飛翔のアレンジで「魔法使い」というワードを使うことの、重さである。「輝夜と魔法使いってあんま関係ないじゃん」という、僕たちを縛るイメージ。この重さだ。
フーリンキャットマークは、自分たちが作り出したい世界のために、いわゆる「東方にわかリスク」を平然と冒す。
別の側面から考えてみよう。この曲は恋する女の子を描いた曲なのだ。だとしたら「魔法使い」という表現は別に珍しくない。椎名林檎(東京事変)だって「女の子は誰でも魔法使いに向いてる」と歌っているくらいだ。「女の子と魔法使い」自体は別に変な組み合わせではない。
自分たちの歌いたいことのためならば、もっと言うなら、究極的に女の子を表現するためならば、リスクを負うことを厭わない。これこそがフーリンキャットマークだ。意図しているのかはわからない。たとえ意図していなかったとしても、これが「東方アレンジ」であることは誰も否定できないだろう。
東方アレンジなのに、世界観のために東方文脈を犠牲にする。こんなに可愛らしいMVとボーカルと楽曲なのに、東方アレンジとしての精神は完全にパンクロックだ。フワッフワでキラキラした音とは裏腹に、スタンスはゴリッゴリのパンクなのである。
極めつけは、「東方妖々夢 ~ Ancient Temple」「死霊の夜桜」「アルティメットトゥルース」からアレンジされた『ロングロングロンド』である。
初手から世界観をこれでもかと押し出してくる。
白い帆をあげ 海賊船南へ進め
まだ見ぬ地を 目指しながら
港には 希望と夢溢れかえるよ
妖夢や村紗というキャラクターに縛られていたら、この曲は生まれていないだろう。これを「東方エアプwww」と貶すことは簡単だ。しかし作りたいもののために、貶される可能性のあるものを作る覚悟のキマり方は、褒め称えなくてはならない。
なぜなら、そこに東方アレンジの新たな可能性を、僕は見ているからだ。
「東方は東方でなくてはならない」その壁を壊そうとしているのがフーリンキャットマークだ。僕はそう感じる。壊れるべきなのかはわからない。でもその向こうにはさらに広い音楽の、東方アレンジの可能性が広がっているのではないか。
「東方でありながら東方ではない」
東方アレンジは現在、思いの外苦しい局面に立たされている、と思う。
サブスク配信が始まったことより、すべての東方アレンジは「全盛期の楽曲に勝てるのか?」という戦いを強いられている。「東方アレンジ」という狭いパイの中で、全盛期の再生数と話題性を越えられるのか? もっとはっきり言おう。東方アレンジサークルは、なぜ東方アレンジ楽曲を作っているのか?
『Bad Apple!! feat.nomico』『月に叢雲華に風』『チルノのパーフェクトさんすう教室』。これら往年の楽曲を越えようと思って作っているのだろうか? もちろん同人なのだから、色んな理由があるのはわかる。好きなものを自由に作れば良いと思う。しかし、本当に「好きなものを自由に」作れているのだろうか?
この問いにおいて、フーリンキャットマーク以上に輝いているサークルがあるのだろうか。フーリンキャットマークが持ち込んだのは、単なるパンクの精神だけではない。
この曲には「自分たちの世界」が確かに存在している。じゃなきゃ、脳は蕩けない。
世界観は人を惹きつける。東方Projectの世界観が、僕たちを強烈に惹きつけるように。
色んなサークルが、色んな世界観を持ってファンを魅了する世界。それが、望むべき東方アレンジの未来ではないだろうか。
それでも、ぼくたちは「東方」のアレンジが聴きたいから
そうであるなら「東方原作の設定にこだわらないこと」は、ひとつの選択肢としてあり得る。
日本のロックですらそうだ。RADWIMPS、凛として時雨、ゲスの極み乙女、King Gnu……例を挙げればキリがないが、彼らは自分たちの世界観を押し出すことでファンを獲得していった。音楽は新規性によって拡大し続ける。流行り廃りはあれども、だ。
一方、音楽には反する性質もある。ファンは新曲を求めつつも、ライブで一番盛り上がるのは、何百回も聴いたはずの曲なのだ。一般的にはアンセムと言われる曲だろう。これはライブに限らない。
人は聞き慣れた曲が自分のコントロール外で流されると、何故か喜ぶのである。
さて、東方には「原曲」という、強すぎるアンセムメロディが存在する。
「偶像に世界を委ねて ~ Idoratrize World」、沸いちゃうね。「輝く針の小人族 ~ Little Princess」、すごく沸いちゃうね。「少女秘封倶楽部」、沸きすぎて壊れちゃうね。
東方アレンジという文化は、僕たちを常に沸かせる環境を用意しているのだ。そんなアンセムメロディたちに感謝しつつ、東方アレンジは新たな一歩を踏み出すことを求められているのかもしれない。
その一歩として求められているものが、新規性だろう。だから僕は、原曲を元にどんな世界を、つまりどんな新規性を描けるかが問われているのではないか、と感じる。だからこそ、東方アレンジというフィールドでここまで自分たちの世界観を構築した「女の子ダイヤル」には1つの可能性を見るのだ。
それは「東方でなくてはならない」に対するアンチテーゼであり、キラキラしたサウンドとフワフワとした可愛らしいボーカルを携えたパンクなのだ。「メロディは完全に東方アレンジでしょ?」 確かに。
幻想郷は全てを受け入れる。その「全て」の境界がどこにあるのか? 女の子ダイヤルが見せたのは、メロディは東方の中心地にありながら、世界観は境界の際を攻めるという手法だ。
「東方」というコミュニティが巨大になればなるほど、それは分裂していく。ファンは当てもなく彷徨い、自分にとっての落ち着く場所を見つけ、そこに宿る。原作、同人誌、イラスト、アレンジ、ゆっくり……宿営地は様々だ。それは、ジャンルの違いだけでなく、年代による分断だってあるだろう。
そんな巨大な構造の内部に、フーリンキャットマークはひとつの旗を立てたのだ。「これこそがフーリンキャットマークだ」という旗である。
東方アレンジでありながら、東方とは異なる世界観を掲げる旗。その旗は分裂していく東方コミュニティの中で、燦々と輝く。「これがフーリンキャットマークだ」と、宿営地を示している。その宿営地に落ち着く人、宿営地を眺める人、それら全ての人がそれぞれに、掲げられた旗から何かを感じ取るだろう。
なぜならその旗は「どこまでも広がる東方の自由性」の風になびいているからだ。東方アレンジの未来の方角に向けて、強くはためいているのである。
東方アレンジに巨大な可能性が迫ってきている。「東方でありながら東方ではない」ということに、貴方は何を感じるだろうか?
フーリンキャットマークの旗が示す未来はなんだろうか? 創作とは何か? 「作りたいものを衒いなく作る」とはどういうことだろうか?
僕は、女の子ダイヤルを再度聴きながら考える。
あぁ^〜脳が蕩けるんじゃぁ^〜
作品情報
『女の子ダイヤル』
収録アルバム:女の子ダイヤル・Rêve de la Reine(ベストアルバム)
委託・配信サイト:
https://huringcatmark.booth.pm/items/2414127その他の委託先:
メロンブックス
とらのあな
アキバホビー『Moon Light Magic ~ メイシャライトマジック』
収録アルバム:琥珀のアルテミス・Rêve de la Reine(ベストアルバム)
委託・配信サイト:
https://huringcatmark.booth.pm/items/1687964その他の委託先:
メロンブックス
とらのあな
アキバホビー『ロングロングロンド』
収録アルバム:ロングロングロンド・Rêve de la Reine(ベストアルバム)
委託・配信サイト:
https://huringcatmark.booth.pm/items/2026508ベストアルバム「Rêve de la Reine」
上記三曲が全部入ったアルバムです!
委託・配信サイト:
https://huringcatmark.booth.pm/items/3797224
サークル:フーリンキャットマーク
https://huringcatmark.booth.pm/
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