東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十六回:彷徨するエピメーテウス #古明地こいし

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

彷徨するエピメーテウス

 古明地こいしは妖怪(覚)です。ただ、サトリ妖怪のトレードマークであるサードアイは閉じられているので、人の心は読めないようですね。先手を打って心を読んでおく、行動の前に思考を終わらせておくようなことはできません。

 能力は「無意識を操る程度の能力」ですが、操られるとどうなってしまうのでしょうか。私達の心には無意識と呼ばれる領域があるらしいですが、それってどんなもので、本当にあるものなのでしょうか。

 二つ名は「閉じた恋の瞳」「何も考えていない者」「空想上の人格保持者」という具合に、あまりポジティブなものではなさそうです。色はさとりさんのネガポジ反転なんですけどね。何も考えていない者とか、結構ひどい言われような気がします。

 BGMは『ハルトマンの妖怪少女』です。人気の曲ですね。深秘録バージョンとか好きです。深秘録曲は全体的に好きですけど。で、ハルトマンって誰だよみたいな話になるわけですが、エーリカではなさそう。ハートマン軍曹でもなさそう。EMT。

  

 無意識といえば本能(イド)と関連付けられることがありますが、こいしちゃんはそんなに本能的に生きているのでしょうか。本能ってなんでしょう。そんなに凶暴でしたっけ? 凶暴かもしれません。

 無意識というよくわからないものを操るこいしちゃんもまたよくわからない存在ではあるので、今回もまたよくわからない話になります。無意識に惑わされ本筋を見失わないように、心を強く持ってお付き合い下さい。

 

希望の面

 無意識だけを見つめていては解ける謎も解けません。じゃあ、一人では解けない系パズルって、二人なら解けるんでしょうか。二人より三人がいい。ということで、四人並べてみました

 まずは古明地さとりさんです。さとり妖怪なので他人の心をさとります。心の動きとは思考の筋道なので、他人の考えが読めるということになりますね。ところで、さとりさんにはこいしちゃんの心が読めないので、一見するとこいしちゃんは「何も考えていなさそう」という印象を受けます。思考の筋道を読むってどういうことかは前回やったので深く立ち入りませんが、おそらくこいしちゃんは理性を働かせるのが苦手なのかもしれないという推測ができます。あくまで推測ですけど。推測って理性を働かせるんですよね。

 次は秦こころさんですね。彼女は感情が表情に出ない面霊気です。感情はありますが、感情表現の際に表情ではなく面を用いて行いますね。このあたりは、表情豊かに描かれているのに感情が乏しいとされるこいしちゃんとは対照的です。特にこいしちゃんは他者の感情に無頓着な、所謂サイコパス的キャラクターとして描かれることが多いように思います。第三の目は閉じているのにこいしちゃんの瞳は大きく描かれがちです。ハイライトがありませんが。

 最後は豊聡耳神子様です。彼女はこころちゃんとは心綺楼ストーリーモードの初戦で戦います。こいしちゃんがもっと戦いたいと思うきっかけですね。神子様はさとりさんと不倶戴天の敵くらい相性が悪い感じがします。というかさとりさんは宗教家と相性が悪そうです。こいしちゃんは宗教家たちには可愛がられそうな気がしますね、なんとなく。さておき、面霊気の元となった面を作ったのは神子様で、希望の面が失われ不安定になったこころちゃんが暴走したのが『東方心綺楼』のきっかけですので、大体神子様のせいです。

 

先考・後考

 こいしちゃんについて考える上で、姉妹の関係は抑えておきたいところです。カラーリングが色相環の反対側にあることからも古明地姉妹はお互いに反対の要素を持っていると考えられます。特に今回は思考と情動という観点から考えてみたいと思います。

 まずは思考からです。世界について考えるためには世界を観測して情報を集める必要がありますが、そのためには一度世界を停止させたいところです。世界とは変化し続けるものであり、その一瞬を切り取って、つまり世界を一度動かないように殺さないといけない。そうして標本化された世界を分析し、切り分けられた世界について色々とアレコレするわけですね。すると、世界について特定の規則性が見えて来るかもしれません。世界には秩序があるような気がしてきますね。「もの」には可能性が備わっていて、時間経過とともにそれが実現されていくように見えることもあるでしょう。そういった規則正しい世界は、死んだ世界です。今はもう大人しいので扱いやすい。

 対して情動ですが、私達は変化し続ける世界に生きています。世界は決して止まってくれません。時々刻々と変化する世界の中でなんとか生きていることになります。法則はあるかもしれないけれど、決してそれだけではない。多すぎる変数に翻弄されながら、どうしようもなく今を生きているわけです。あまたある可能性の中から実現された「今」こそが世界になります。それが美しいかどうかはさておき。

 弾幕ごっこを例にとりましょう。考えながら弾を避ける場合、どの弾が被弾コースでどう避ければその後楽になるかというふうに考えながら動くわけですね。自機狙い、自機外し、ランダム、パターン、その他色々。ちょんちょん避けて射線を外しながら弾の薄いところを作るように誘導したり、相手の周りをグルっと回ってみたり。先々を考えながら動くことで弾幕ごっこを有利に運ぶわけです。対して特に何も考えず弾を避ける場合、常にガチ避けをすることになります。気合避け上等です。反射神経フル稼働ですね。それはそれで楽しそうではありますが。

 

意識vs無意識vsダークライ

 無意識という言葉は日常的に使われますが、どういう意味なのでしょう。「無意識に」といえば、大体「自分の責任ではない」、「自分の望んだことではない」、「自分の意志ではない」みたいな場合に使われると思います。「魔が差した」とも言うでしょうか。意識とは自覚できる領域を指すのに対して、無意識は心の奥の制御できない領域のことを言うといったイメージでしょう。フロイトの無意識に関する通俗的解釈はこのようなものかと思われます。

 『無意識の哲学』という本の著者であるエドゥアルト・フォン・ハルトマン意識の働きを能動的な主体としての個人に、無意識の働きを受動的な存在としての個人に関連付けています。どちらも同じ個人ですが、思考する主体と情動の元となる存在という二つの側面があるという立場ですね。

 ハルトマンが影響を受けたショーペンハウアーは、思考の対象である表象(世界)を生み出すものとして「生への意志」の存在を唱えました。彼の思想の影響を受けたニーチェも、世界を解釈するものとして「権力への意志」という概念を持ち出します。それらの意志の正体とは、私達の生理機能です。喉が渇いて水を飲むとき、口から入った水が食道を通って胃へ落ち腸に流れ吸収され身体中を循環し排泄されるまでの全ての工程を「意識して」やっているわけではありません。一連の工程は生への意志の元に進行しますし、それらは無意識に行われるものです。個人の生存や成長といった現象は、個人の主体的な意識ではなく生への意志という無意識的な生理現象に由来するということです。

 つまり無意識こそが意志であり、意志は意識の支配下にあるものではないということになります。ご飯を食べても太らなければいいのにとか、お酒を飲んでも二日酔いにならなければいいのにとか、どんなに強く願っても個人の意識だけではどうしようもない。人生はままならないものです。

 

Close your eyes, close your head.

 個人と世界については、ニーチェによれば、主体が能動的に世界を解釈するのではなく、権力への意志が解釈するとされています。解釈の前に解釈者を置く必要はあるだろうかとも言っていますね。つまり、解釈は能動的な行為ではなく受動的な反応であるということです。所謂、近代的自我が感性・悟性・理性を支配して世界を理解しているわけではないと言えます。

 個人の意志は悟性に作用します。眼の前にこいしちゃんが見えていたとしても、それがさとり妖怪「古明地こいし」であるとカテゴライズされなければ、思考の対象にはなりません。空気中には酸素分子があるはずですが、我々の目には見えません。じゃあ見えないから存在しないかと言えばそんな話ではなく、いちいち酸素分子の有無について考えていないだけです。同様にカテゴリー分けできないものは思考の対象にはならないはずです。妖怪なんてどこで一区切りかも分かりませんしね。単なる現象に名前をつけた妖怪だって居るわけです。山彦とか。

 さとり妖怪がサードアイを閉ざすということは、人間が目を閉じるということです。「幽々子さま、大変です。目を瞑ったら真っ暗です!」という名言がありますね。あなた半分人間じゃないでしょうに。さておき、悲しみが多すぎて泣いてばかりいたって何も見えなくなっちゃうらしいですし、閉ざされた感覚は鈍くなっていくものです。恋の瞳は閉ざされてしまいました。他人の心を読みたくないから心を閉ざしたこいしちゃんは、自分の心についても省みることがなくなり、結果的に思考に対する興味も失ってしまったのでしょう。それでもこいしちゃんは単なる生命現象ではなく、名前と意志を持った個人のはずです。いや、人ではないですけど。

 

Hoffen wir, aber nicht zu viel.

『東方心綺楼』でのこいしちゃんの動きを見ると、能動ではなく受動の側面が強いように思います。立ち回りが設置系というか、自ら設置されに行く系というか。仕込み系っていうんでしょうか。こいしちゃん操作できるんですか? やったー。これ本当に操作できてるんですか? みたいな。

 思考を閉ざしてしまった存在にとって、過去は自らがかつて経験した記憶であり、現在は今まさに直面している世界であり、未来は想像もつかない虚無です。過去の経験から現在を起点に未来を予想することはできません。また、もしも自分がここではない場所にいたらというifの世界を想像することもできないでしょう。眼の前に木があって、自分からは見えない側には花が咲いているかもしれないけれど、見えない以上そこには何もない。今まさに目の前にある光景以外に世界はありません。

 未来を予想するために必要なのは希望です。希望とは将来に対する期待であり、現在からほんの少しだけ異なった世界です。自分が動くことで世界が変化し、そこに生まれた変化にさらなる展開を仕込むことで、どんどん未来が広がっていきます。世界のどこに自分をねじ込んでいくかで、未来が変化していくわけです。どういう力(権力)を志向するかという意志が、人を動かしていると言えるかもしれません。希望は信仰が与えてくれる場合もあります。思考が与えてくれることもあるでしょう。祈り念じることが未来を与えてくれることは多いですね。

 未来を手にするためには未来像がなければいけません。見通しの効かない場所では立ち止まるのが安全です。手を引いてくれる人がいればいいのかもしれませんが、あいにく今は見当たりません。手元にある希望の面を頼りに、目を瞑って真っ暗な視界で、踏み出した先に地面があることを期待して歩んでいくことになります。

 We hope, but not too much.「期待しましょう。でも期待しすぎてはいけません」

 

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十六回:彷徨するエピメーテウス #古明地こいし おわり

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