東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十二回:山坂に吹き渡る風 #八坂神奈子

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

山坂に吹き渡る風

 八坂神奈子様は神様です。東方風神録6面ボスであり、最近では東方強欲異聞にもプレイアブルキャラクターとして登場しました。

 二つ名は山坂と湖の権化であり、能力は乾を創造する程度の能力です。風の神様だと思ってたんですけど、湖もなんですね。まあ、乾は天ですし風雨の神は恵みの神でもあります。きっと天の道を征き、総てを司るのでしょう。

 BGMは「神さびた古戦場 ~ Suwa Foughten Field」で、軍神としての諏訪明神の側面が強く出ているような気がします。諏訪大戦ですね。中央と地方の争いです。

 彼女を象徴するスペルカードといえば神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」です。御柱祭というのは申年と寅年に行われる奇祭であり、諏訪大社といえばこれ、という行事だと思います。言うほど奇祭か? いや、木落しとかだいぶ奇祭だよ。

 いつも通りに怪しい話をしようと思ったのですが、八坂神奈子様は威厳に溢れたカリスマなので変な話にならないかもしれません。嘘です。

 

草薙・草彅

 いきなり草薙さんの話です。草薙といえば三種の神器に草薙の剣がありますね。大和武尊やまとたけるが草原で火を放たれたときに、草を薙ぎ迎え火を点けることで難を逃れたことに由来する名前であり、名字としても使われています。同じ読みで草彅と書く場合もあります。こちらの彅は漢字ではなく国字と呼ばれるもので、同じ「くさなぎ」でも由来が異なるようです。元SMAPの草彅剛さんが有名ですね。薙を「やなぎ」、彅を「ゆみなぎ」といって区別する地方もあります。筆者の地元です。

 歴史の話なので退屈かもしれませんが、しばしお付き合いを願います。中尊寺というお寺に、全体が金色に輝く金色堂こんじきどうという建物があります。世界遺産にもなっているほど有名なのでご存知の方も多いかもしれません。源平合戦の時代に「奥州藤原氏」という一族がいて、その繁栄の象徴とも言える建物ですね。近くには摩多羅神のまつりで有名な毛越寺もあり、東北の山の中なのに、妙に栄えていた場所です。

 その奥州藤原氏が成立するきっかけとなったのが、前九年・後三年の役です。筆者の高校生時代、電車通学の際に後三年という駅を通過するたびに後三年の駅だなぁなどと思っていたものでした。大河ドラマ『炎立つ』の舞台にもなりましたね。

 源氏にも摂津とか大和とか河内とかありまして、摂津源氏は鬼退治の源頼光から鵺退治の源頼政に至る家系です。こっちのほうが東方に関連ありそうですね。河内源氏は平忠常の乱を平定した源頼信から始まり、源頼義・義家親子が前九年・後三年の役を平定するなど武功を重ね、源頼朝に至って征夷大将軍の称号を手にします。

 前九年・後三年の役をざっくり説明します。現在で言う岩手県のあたりにいた安倍氏という有力豪族が朝廷に年貢を収めなかったので、源頼義が討伐を命じられました。その後苦戦した源頼義が出羽国の清原氏に援軍を頼んで無事安倍氏を滅ぼすまでが、前九年の役です。滅んだ安倍氏の代わりに清原氏が勢力を伸ばしますが、どういうわけか内輪揉めを起こします。そこに義家が介入し清原氏を滅ぼしたのが、後三年の役です。その後、義家に味方した清原清衡(安倍氏の末裔)が母方の藤原氏を名乗り、奥州藤原氏が誕生します。結局、奥州藤原氏も源頼朝に滅ぼされますが。朝廷を妖怪から守るのが摂津源氏で、武力行使を代行するのが河内源氏……という感じでしょうか。

 源義家は武勇に優れ、石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎はちまんたろうという呼ばれ方をしました。物語に出てくる英雄として、さらに源頼朝や足利尊氏の祖先としては、源義家よりも八幡太郎義家と言ったほうがしっくり来ますね。源三位頼政げんざんみよりまさみたいなものです。ハチマンタローって語感もいいですしね。

 ともあれ、草彅さんは後三年の役のときに八幡太郎義家の露払いとして草を薙いだことにより、草彅の性を賜ったとかなんとか。大和武尊だったり八幡太郎義家だったり、これらは英雄に由来する名字なわけです。

 

かみさまの来歴

 では八坂神奈子様について考えるにあたって、建御名方命についておさらいしておきましょう。基本的には国譲りの場面で、武御雷との力比べに負けた話と諏訪に向かった話の2つに出番があります。力比べで負けた建御名方命は出雲を去りますが、それってどこの出雲なんでしょうね。『出雲国風土記』は島根県が舞台ですが、元出雲と呼ばれる神社は京都府にあります。元○○の話をするなら、元伊勢という神社なんていくつあることか。出雲って何なんでしょう。

 とはいえ、いまは建御名方命がどこから来たかより、どこで祀られているかのほうが大事です。言うまでもなく諏訪大社ですね。諏訪とは州羽もしくは州端とも書くらしく、州とはクニのことで、スワとはつまり国の外れという意味に解釈されることもあるようです。平安末期の前九年の役の時代には岩手の北上川あたりが最前線だったように、諏訪のあたりが国境という時代もあったのかもしれません。

 天竜川を遡ったところにある大きな湖。そんな場所に建御名方命がどんな目的でやってきたのかは明らかでしょう。大和朝廷の侵略ですね。建御名方命とは征夷大将軍のような役目だったかもしれません。土着民との戦闘は当然の帰結ですし、勝敗も明らかです。建御名方命が諏訪を離れたという話は聞かないので、そのままその地に留まり神として祀られていたのでしょう。

 諏訪では上社が神別、下社が皇別と言われるように、その経緯を追うとかなり複雑なので詳しくは立ち入りません。歴史は苦手なので。いずれにせよ、諏訪大社というのは単一の神社ではなく上社前宮・本宮、下社春宮・秋宮の4つの神社の総称であるということを忘れてはいけません。それらを取りまとめる神として諏訪明神こそ、東方で言う八坂神奈子という神様だと考えられます。あれ、諏訪子様どこいった?

 

私と私

 歴史上の人物として実際に諏訪大戦を戦った建御名方命と、神話に語られ祀られる神となった建御名方命を区別すると、話が簡単になるかと思います。私たちは神の存在を信じたり信じなかったりしますが、どこで境界を引くかといえば、主にその実在に関してではないかと思います。

 キリスト教の神は実在するのかと言われると非常に答えにくい問題になりますが、こと日本において神は実在するかといえば、昔は匿名掲示板にも神はいましたし、実在の人間が神になることだって出来る世界です。その存在が目に見えない場合、つまりその実在を信じられないと、人はその存在を物語へと追いやってしまいます。たとえ実際に世界に存在していたとしても。それは名前だけの、実体のない存在だと片付けてしまうのです。AIと人間の区別みたいな話ですね。チューリングなんとかです。ラヴではありません。

 その点、現人神というのは非常に分かりやすい形態と言えるでしょう。神話上の存在が実体を伴って――つまり、目に見える形で現れているので。そうして見えるものにかまけている間に見えないものを見落としてしまうのですね。

 

神は物語に生きる

 つまり、神の実体と名前というのは源義家と八幡太郎のようなものだと思われます。単に筆者が前者は歴史上の人物、後者は物語の登場人物として認識しているだけなのですが。とはいえ、物語の登場人物みたいな実在の人物もいますね。鎮西八郎為朝とかハンス・ウルリッヒ・ルーデルとか。

 話に尾ひれが付くというのはよくありますが、適切にトリミングしてやれば、なんとなく本体の輪郭くらいは見えてくるものだと思います。それは一体なにかといえば、名前を実際に動かしてみることでしょうか。

 名前は物語の中で筋書きに沿って動きますが、たまに物理的にありえない動きをすることがあります。突然ふたりに分裂したり、瞬間移動してみたり。小説を書いてるとたまに起こりますね。あれ、こいつさっきまで居間にいたはずなのにいきなり玄関から入ってきたぞ、みたいな。漫画でも、こいつ主人公の左に座っていたはずなのに次のコマでは右にいるぞ、みたいに。そうはならんやろ。なっとるやろがい。それは基本的に物語の中でしか起こらないものです。

 名前を現実的な世界に落とし込むにはどうすれば良いでしょう。名前とは情報の集積場なので、発生源である実体との間でサイクルを回せばいいのです。無理があればボロが出ます。たまにボロが出ないくらい上手く回せる人もいますが。いずれにせよ、すごい存在を名前で縛ってサイクルに取り込んでしまえば何かが起こります。逆に言えば、神を神のままにしておきたいなら、目に見える存在にしてはいけないわけですけれど。特に神話に頼って生きる場合は、神様はみんなの心のなかにいてもらったほうが御しやすいので。

 

信仰は儚き人間の為に

 外の世界から幻想郷にやってきた諏訪の神様は、八坂神奈子様として人々の生活に溶け込んでしまいました。専ら布教は東風谷早苗さんが担っているようですが、神様の言葉は早苗さんを通してしか聞けないわけではありません。神様が実在するってすごい。

 そんな神様と博麗霊夢さんは弾幕ごっこをしたわけですが、これも神様が実体を備えていたからこそ起こったわけです。実体がない神様が弾幕を放っても、誰が撃ったんだかわかりませんからね。弾幕ごっこの弾は「誰かが放ったもの」である必要があります。スペルカードの美しさは誰かの手で作られたものでないと判断しづらいでしょう。ゲームのプレイヤーであるためには実体が必要なのです。これは神様に限った話でもありませんけれど。

 つまり、ごっこ遊びに興じるためには人間の、特に少女の形を取る必要があるわけですね。妖怪も神様も少女ばっかりなのは、ごっこ遊びとの親和性という理由もありそうです。

 そして遊びには決まりが必要になります。厳密に文章化されていたり、なんとなく雰囲気で決まっていたりと様々ではあるでしょうが、遊びから逸脱しないだけの流れや枠組みを必要とするに違いありません。ではその決まりを誰が管理しているかといえば、スペルカードルールの制定者、つまり博麗神社側の存在となるわけですね。ここで幻想郷にとって新参である八坂神奈子様の取り得る選択肢としては、もう一度諏訪大戦を起こすか、郷に入っては郷に従うかのほぼ二択になるわけです。知らんけど。知らんのかい。

 さておき、当初は早苗さんがわりかし好戦的な態度で博麗神社に来たように、あわよくば遊びの主導権を握ろうとしていたのかもしれません。結局叶わなかったわけですが。そうすると神話に出てくる神という形で信仰を獲得するのではなく、実体を備えた神様として人々に混じりリーダーシップを発揮するほうが信仰が得られるということになるでしょう。電気っていう便利な動力があってね、みたいに。また守矢か。

 結局信仰というものは、妖怪を含む信徒が実際に動いて実感してみないと集まらないものです。百聞は一見にしかず。以前と比べて便利かどうか判断するためには、実際に体験してみるのが何より有効ですから。そして人々の営みとはどこで行われるかといえば、人里だけではなくその周囲の道であり、坂であり、川やその先にある湖でしょう。山坂や湖とは人の営みの場であり、その権化たる八坂神奈子様は人々の営みも象徴していると言えるのではないでしょうか。目新しさや利便性を好む描写が多いように感じるのも、神奈子様本人が、と言うよりも氏子である天狗や人間がその方向の恵みを求めている結果と解釈できるような気がします。天狗って社会生活してますし、人間っぽいですよね。アグリー。

 そんなこんなで、お酒の好みが合わなさそうな描写とかありましたけれど、八坂神奈子様は幻想郷での新たな生活を楽しんでいると思います。新たな社会で新たな共同体を運営するというのは神話の時代からやってきたことでしょうし、これからもなんとかなることでしょう。あれ、じゃあ諏訪子様は……?

 

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十二回:山坂に吹き渡る風 #八坂神奈子 おわり

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