東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十一回:胎動する魔力 #堀川雷鼓

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

胎動する魔力

 堀川雷鼓は、和太鼓の付喪神です。打ち出の小槌の異変の時、鬼の魔力に乗っ取られそうになったところを、依代の和太鼓とその奏者を切り捨て外の世界の魔力に乗り換えることで現在の姿になったと思われます。さらっととんでもないことしてますね。

 能力は「なんでもリズムに乗らせる程度の能力」で、筆者は無意識に指先でリズムを取ったりするのですが、もしかしたら影響されているのかもしれません。

 二つ名は「夢幻のパーカッショニスト」であり、シンセドラムを背負っているあたりがドラマーというよりパーカッショニストなのかもしれません。打楽器全般を扱えそうな感じです。パーカッションが印象的なSTGの曲といえば個人的にはGダライアスのAdamを思い出しますが、Gダライアスのキャッチコピーが「君は生命いのち誕生はじまりを見る…」でしたね。きっと誕生するんでしょう。色々。

 BGMは「始原のビート ~ Pristine Beat」です。打楽器パートが印象的な曲ですね。和太鼓は地元の祭囃子で叩いたことがある程度の腕前なのですが、楽しそうな曲だなと思います。Pristineとは「原始的な、手つかずの、純粋な」という意味ですが、それってどういうビートになるんでしょう。「生まれたまま」っぽいニュアンスを感じますね。それってなんだか妖しげです。

 

魔力の雷雲

 東方輝針城四面道中曲が「マジカルストーム」、EX道中曲が「魔力の雷雲」です。両方とも魔力が関係していますね。

 ちなみに四面BOSS曲は「幻想浄瑠璃」であり、浄瑠璃といえば人形浄瑠璃です。三味線を伴奏とした語り物であり、その曲に合わせて人形劇が演じられますね。人形浄瑠璃で当たった演目は歌舞伎にも取り入れられ、人間が演じる際も、演者があたかも人形であるかのように動く「人形振り」と呼ばれる演出がされたりします。

 感極まった状況になれば、演技が人間から人形のようになるというものであり、魔に憑かれた状態のようにも見えます。尋常ではない状況という表現ですね。役者が浄瑠璃の魔力に乗っ取られている、と解釈することもできるかもしれません。幻想浄瑠璃の場合は三味線ではなく琵琶ですが。

 つまり、魔力は人を無意識に操る力と言えるでしょう。無意識といえばこいしちゃんですが、この場合は鬼の力の方が近いでしょうか。伊吹萃香の「疎と密を操る程度の能力」だったり、星熊勇儀の「怪力乱神を持つ程度の能力」だったり、茨木華扇の「動物を導く程度の能力」だったり。それぞれ人間の意識や理性を超えたところにある能力と言えるでしょう。

 無意識と近い概念に「微小表象」というものがあります。緑色に見えるものが、本当は青と黄色のドットが混ざったものだったりするやつです。表象(感じられる世界)は微小表象の集まりであるという発想ですね。

 近いのが微分・積分の概念です。曲線を微分すると直線になったり、積分すると面積になったりします。ある表現を別の表現で書き換える方法と言えるでしょう。雷雲は細かく見れば静電気の塊です。同様に旋律メロディー雑音ノイズの塊と言える……かもしれません。

 

人間っていいな?

 皆さま御存知の『荘子』応帝王篇おうていおうへん第七、渾沌こんとんのお話です。みんなしってるね。

 一応ざっくり説明すると、ある日渾沌にもてなされたしゅくこつ(どちらも短い時間という意味、つまり人間のことです)は、恩返しとして七つの穴をあけようと思い立ちます。七つの穴とは左右の目・鼻・耳と口のことですね。顔、つまり感覚のない渾沌に一日に一つずつ、七日かけて穴を開けてあげたところ、なんと渾沌は死んでしまいましたとさ、ちゃんちゃん。というお話です。

 ここで注目すべきは、一日という単位と七日というまとまりでしょうか。渾沌は自然のことだと解釈できます。自然には必然的な単位がありません。一日というのは人間が太陽を基準に明るさに依存した区切り方であり、光の届かない場所では意味を持ちません。七日を一週間と区切るのも偶然の産物です。事実、古代中国で一ヶ月は上旬・中旬・下旬の十日ずつだったわけですし、基本的に大体の単位は人間の都合です。

 つまりこの場合、自然を人間の倫理で切り分け並べ替えたら、そこに生まれるのは秩序です。東京が死んで、僕が生まれたわけですね。

 

意味はどこにある

 世界は意味で満ち溢れています。嘘ですが。

 最も美しい定理として有名な「オイラーの等式」ですが、筆者は文系なため、正直なところ意味がわかりません。「自然対数の底e」を「虚数iと円周率πの積乗した数」に1を足すと、0になるらしいです。

 じゃあ本当にそうなるのか、実際に各記号の数値を求めてみましょう! ……無理でした。円周率がある時点で、実際の数値で表示出来ません。意味が「実際の数値」のことを指すのであれば、この時点で意味不明です。

 オイラーの公式「e^iφ=cosφ+isinφ」が成り立つので、φにπパイを代入するとcosφ=-1、sinφ=0となり、右辺が-1になります。つまり整理してe^iπ + 1 = 0となる……ってウィキペディアに書いてました。どこからπが出てきたかは分かりましたね。πとは実際の数ではなく円周率という概念、及びその数を求める手続きのことだと解釈できます。

 記号が分かりにくかったら、実際の数で考えましょう。たとえば「1+1=2」で考えるなら、任意の2という数字に1+1を代入しても、計算結果は変わりません。「3+3+4=10」だったら、なんでや阪神関係ないやろとなるわけです。本当に関係ないですね。

 つまり、記号の意味とは実際の数値ではなく、その数値を求める手続きにあると言えます。さらに対象を広げて言うと、物事の意味とは、それを認識するプロセスにあると言えます。ウィキペディアのリンクみたいなものです。ふと我に返るとタブが大量に開いてるやつ。

 

熱力学第二法則に対する抵抗

 我に返ると周囲が散らかっているのはよくありますが、勝手に片付くという経験はしたこと無いですね。散らかる一方です。つまりエントロピー。水も人も低きに流れる。そうして宇宙は熱的な死を迎えるのですね。熱力学とか本当にわからないので、文系が適当なこと言ってると聞き流していただきたければ。

 基本的に世の中のエネルギーって一方通行なのですが、ときどき渦巻きっぽいものが出来上がったり、潮溜まりみたいなところが出来たりします。生命とかですね。人間の身体は、七年くらいでだいたいの分子が入れ替わるみたいです。分子が出たり入ったりする過程を、成長や老化と呼びます。だいたい酸化して変化して散逸するわけですね。人間は散逸系で蓬莱人は平衡系だと解釈できます。

 さておき、川には流れがあり、それに流されず逆に遡ったりするのが生き物と言えるでしょう。流れに逆らうだけではなく、夜空から星を選びとって物語を作り出すのも生き物の営みです。心拍にリズムを見出すこともあるかもしれません。私たちは世界に溢れている意味を受け取っているのではなく、世界に意味を生み出し続けているのです。

 

純然たる魔力の胎動

 というわけで、ゴーストが囁くわけです。

 太鼓はわりと原始的な楽器です。なにせ叩けば音が出ますからね。ドンドコドコドコ鳴らします。太鼓に限らず、なんでも叩けばなにかしらの音が出ます。ピアノだって弦を叩いて音を鳴らしているわけですし、ベースのスラップ奏法とかもそうです。エンターキーだって叩けば鳴りますね。カチャカチャカチャッターン。

 最近音ゲーが流行ってますが、あれは演奏とは異なるものな気がします。音楽からリズムを取り出してなぞるのは、あんまり演奏っぽくないです。どちらかといえばeスポーツですかね。音ゲーの楽しさは、演奏の楽しさとは別にある気がします。リズムゲーム、ともいいますしね。

 雷鼓さんは、弾幕を生み出すことで音楽を生み出しています。「ブルーレディショー」とか「プリスティンビート」がそうですね。BGMと弾幕の音が綺麗に重なる時、音楽を演奏しているといっていいでしょう。ノイズになるか音楽になるかはプレイヤー次第ですが。プレイヤー・ピアノではなくピアノ・プレイヤーになろうという話なのかもしれません。ピアノを弾くならピアニストだろうというツッコミはさておき。

 シューティングゲームにおいてプレイヤーの避け方によって弾幕の美しさが変化するように、人間は世界での立ち位置を選択することで、自分の世界を選び取ります。演奏とは、他者の基準に従順であることではなく、他者との調和を選択することなのです。そうして自分の世界を選び取ることで、使役されるだけの存在から、人格を備えた一個人へと変化することができるわけですね。

 堀川雷鼓は鬼の魔力の奔流に流されず、自己を規定するコトワリを選び取り世界と向き合うことで、ただの道具から確固たる妖怪の姿を手に入れることが出来ました。つまり、操られる人形から、自分で動く演者になったと言えるでしょう。舞台に置かれる存在から、板の上に立つ存在へと生まれ変わりました。

 堀川雷鼓という存在はいまが始原、まさにここで発生したバーチャルスターなのかもしれません。

 

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十一回:胎動する魔力 #堀川雷鼓 おわり

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