高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十回:風吹く湖畔のしじま #東風谷早苗
幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。
初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生と申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。
風吹く湖畔のしじま
東風谷早苗は人間です。
初登場は東方風神録で、5面ボスとして出てきます。風祝(かぜほおり・かぜはふり)であり、その名の通り風を祝ぎ、また屠ることで風雨の神に仕える存在です。風が凪いだり風で薙いだりするわけですね。
能力は奇跡を起こす程度の能力ですが、奇跡って一体何なんでしょうね。海を割ったりするみたいですが、それって魔法とどう違うのでしょう。
二つ名には「祀られる風の人間」や「山の新人神様」があり、人間なのか神様なのかよく分からない感じです。現人神ですけど。げんじんしんではありません。
早苗さんといえば、東方地霊殿EX道中における「この幻想郷では常識に囚われてはいけないのですね!」のセリフがあまりにも有名です。というわけで、今回もがんばって常識にとらわれない話をしていきたいと思います。いや、奇跡について考えたら非常識な話になるんですけどね。常識的に考えて。
鰯の頭も信心かな
奇跡を起こすには信仰が必要なので、とりあえず信仰について考えてみたいと思います。
信仰というと、なにやら大げさに聞こえますね。「汝○○すべし」のような言い回しで定式化されるような、守らなければならないルールのように思うかもしれません。ですが、実際には倫理・道徳についての話になります。倫理というのもちょっと硬い響きですね。
つまりは習慣の話です。ルールとして守らなければならないものというより、ルーチン化してしまった方が良いものという程度のゆるさです。破ってはいけないと言うより、守ったほうが楽なものですね。日曜日に市場へ出かけるのは一週間の歌ですが、だいたいそういう内容です。
「倫理」ethicsというのは古典ギリシア語でethos、ラテン語でethikosで、もともと習慣という意味です。「道徳」moralも同様にラテン語moralis「習慣」に由来します。mos「性格」から派生した言葉ですね。難しく考えることはありません。たとえば、毎日朝6時に目を覚ますという生活習慣を実行するだけでも倫理的な行為になるでしょう。モーニングルーティーンなんか倫理の塊です。
ほかには、身の回りの単位もそうです。現代日本では基本的にメートル法が使われていますが、アメリカではヤード・ポンド法でしょうし、日本でも昔は尺貫法が使われていました。幻想郷ではどうなんでしょうね。秦の始皇帝は度量衡の統一をしたと言いますし、どの単位を採用するかというのはわたしたちの日常生活に結構な影響を及ぼします。
言葉も同様に、わたしたちの生活とは切っても切り離せないものです。この文章は日本語で書かれていますが、読者の多くが英語話者であったら英語、セレスティア人だったらメルニクス語で書かれていることでしょう。バイバ。
倫理といえば宗教も外せません。日本人は無宗教と言われることもありますが、宗教の影響下に無いとは言えないでしょう。自覚的に信仰していないだけで、倫理的規範としてゆるく採用しているものがほとんどだと思います。
ここまでざっくり見て分かるように、倫理とは単位と繰り返しで成り立っています。特に同じ空間で行動する人たち、身近なところでは家族、もう少し広く見るとクラスメイトや同僚などは、行動に際して下される判断の単位を共有するようになるでしょう。
つまり、日常生活の区切りを共有しているということです。具体的には、毎朝6時半くらいに起きて身支度をして学校や会社へ行き、家に帰ってきたら食事をとり入浴し日付が変わる前には眠る。別に6時半が6時や7時になったところで大した問題はないでしょうが、8時になるとちょっと話は変わりますし、9時だと大体遅刻ですね。
これが幻想郷だと、だいたい日が昇ったら起きて、日が沈んだら酒のんで寝るみたいな、もっとざっくりした単位になるわけです。会社はたぶん無いので始業の時間も適当で、みたいな。そうなると生活の軸になるのは、会社や学校ではなく身の回りにある田んぼや畑といった自然、太陽や月、星のような天体の動き、台風や地震といった災害あたりになりそうな気がします。
あなたは神を信じますか
あなたは神を信じますかと聞かれたら、一昔前なら「VIPで見た」と答えるところです。
神ってなんでしょうね。「人」という字は人と人が支え合っているわけではありませんが、「神」という字は祭壇である「示」と稲妻を表す「申」で出来ています。神鳴りと言うだけあって、神の顕現と考えられていたのでしょう。インディグネイション。
日本の神には天津神と国津神がいます。例を上げるなら、前者が神奈子さまで後者が諏訪子さまですね。どちらも人の祖先であり、人間よりもすごくすごい存在です。そんな存在がわたしたちを守ってくれるということです。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。 これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。 いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
ーー平家物語
この文章は平家物語にある「扇の的」の場面ですが、ここで那須与一は石清水八幡宮、日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社、那須温泉神社などの神に自らの守護を祈っています。八幡神は武神、日光、宇都宮、那須は与一の出身地である東国の鎮守ですね。矢を外したら命はないので守ってほしいという祈りです。
この場合の「神」とは、自分を助け導いてくれる保護者のことであり、神に対する祈りは自分は神に守られている立場にあるという自覚に基づきます。利益を与えてくれるというよりも不利益を退けてくれる存在です。お金があれば、幸せは買えないかもしれないけれど不幸は防げる、みたいな。
那須与一の祈りとは、扇の的を射抜くという行為の成功というよりも、それを成功させ自分の日常、つまり出身地に戻ることを願ったものなのでしょう。自分の出生地とそこでの生活を強烈に肯定するものだったと言えます。生活の基盤は大事なのです。
奇跡の価値は
「扇の的」の逸話は、那須与一の腕前もあったでしょうが、その実現は神の奇跡によるものと言ってもいいでしょう。東国の神々の守護があったおかげで、風が凪ぎ、波も穏やかになったと解釈できます。
神の奇跡は歴史に語られるものであり、それは時に神話と呼ばれます。神話を含む歴史をもとに現在の世界を解釈するのが神道のスタンスであり、その信仰のベースとなるのが日本神話です。必要なのは受容であり、批判的な読解ではありません。理性や知性によって生きるのではなく、知の犠牲によって成り立つ信仰生活を送るべきだ、と言ってしまうと過言ですけれど。
「自らが主体であり続けるということに耐えるという宿命を受け入れられないような人は、おとなしくキリスト教への信仰に戻り、非アカデミックな職業に就いて、そこで日々求められる役割を果たし、人間関係の中で生きるべきであるとする。」
この文章はマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』にあるものです。キリスト教の信仰について書かれたものですが、信仰生活とは人々の生活において行われるものであり、学問の場においてではないという内容です。
つまり、信仰の対局にあるものは学問であり、奇跡の対岸には魔法があると言えるかもしれません。学問とは自らの持っている知識によって世界と対峙するものであり、信仰とは神を通して世界を受容するものと言える気がします。
倫理に話を戻すと、信仰は人々の間で共有される価値観と親和性が高く、学問は個人の中にある習慣と関係が深いと言えるでしょう。信仰は社会と切っても切り離せません。布教活動は大事。
常識…これを禁ず…
人と関わる時に大事なのは常識です。常識とは何かといえば、常識的判断をする時に参照する知識ですね、常識的に考えて。いや、常識ってなんだよ。
常識と関わるのは価値観であり、社会で流通しているものについての意味です。特定の行為が常識的か否かは、状況によります。
たとえば、和食なら食器を持つのは当たり前ですが、フランス料理なら食器は持たないのが普通です。マナーが時と場合によって変わるように、常識も状況次第で変化します。ですから、常識とは何かと問われたら、状況を適切に把握した上で選ばれる知識ということができるでしょう。常識以前に、状況判断が必要になるわけです。自分が何を食べているかを把握した上で、どのように食器を扱うべきか判断するわけですね。よく言われるように、唯一絶対のマナーを押し通そうとするのは、マナー違反なのです。
西洋の美術にはマニエリスムと呼ばれる立場があります。これはミケランジェロやラファエロのような偉大な芸術家の技法とその再現を中心に置くものと言えます。
作品と芸術家の関係ではなく、作品とマニエラ、つまり技法の手引書に重きを置く立場ですね。作風の癖を盗む、模倣するみたいな意味です。小手先の技術に凝ると言ってもいいかもしれません。これが行き過ぎると、日本語で言うマンネリ、つまりルーチンワークや段取り芝居のような意味になるわけですね。英語のmannerismにはそういったニュアンスは無さそうなので、ほぼ日本語ですね。マンネリも芸のうちらしいですが。
語源をたどるとmanus「手の」という言葉に行き着きます。感じとしては、手を使って何かを操作する、その際に文字通り「手引き」してくれるものというところです。少しのことにも、先達はあらまほしきものなり。とはいえ、手を引かれているうちはまだひよっこなのです。
信仰は儚き人間の為に
いろいろと見てきたように、なにかを信仰するというのは、すごい存在に守ってもらおうという発想がその根本にあります。基本的には神様の言うとおりなのですね。早苗さんとか、本当に神(奈子)様の言う通りな行動原理で生きてそうです。
では逆に、信仰されるとはどういうことかといえば、習慣を作り出す側になるということです。それはつまり保護者になるということであり、親になるということです。さらに言えばオリジナルになるということでもあり、模倣される対象になるということですね。
早苗さんは、外の世界で既に「奇跡を起こす」という人間離れしたことをしていました。それは魔理沙のように好奇心に基づく研究と魔力によってではなく、神様に対する信仰心によるものです。そして同時に、科学の知識に関しては幻想郷の誰よりも進んだものを持っていると推測できます。現代の外の世界における常識とは、その多くが科学的知識によってもたらされたものですからね。
一般に科学的知識と信仰心は相性が悪いものとされがちですが、それは科学が幻想を排除する機能を持っているからです。科学的にありえない、というやつですね。じゃあ科学が人生の意味を生み出してくれるのかというと、そこは向き不向きというやつで。
極端な話、科学的な正しさが人生の意味だとすると、人が死ぬことは科学的に正しいし、死なないようにすることは科学的に誤った行為、つまり悪だとなるわけです。それもまたひとつの信仰ではあるでしょうが、あくまで数ある倫理のひとつに過ぎません。唯一絶対の倫理はありませんし、仮にそのようなものがあったとしても他人に強要するのはマナー違反でしょう。失礼クリエイションです。
早苗さんが科学的知識と信仰心を衝突させずにいられるのは、おそらく神奈子さまのおかげでしょう。新しもの好きの神様ですから、新しい知識との付き合い方に慣れていると思われます。すり合わせて自分のものにするのが上手なのでしょう。早苗さんも今は神様の言うことを聞いていればいい時代を過ごしていますが、今後ずっとそのままという訳にはいきません。そこで地霊殿EX道中の台詞が思い起こされます。
「うふふ 私もここでの挨拶の仕方を学びました」
「この幻想郷では常識に囚われてはいけないのですね!」
アイサツは絶対的な礼儀です。古事記にもそう書かれています。冗談はさておき、外の世界から幻想郷に転移してきた早苗さんは異世界人です。異世界物でよくある自己の価値観との葛藤があったかもしれません。自分の常識が幻想郷では常識ではないと思い知らされることもあったでしょう。それでも幻想郷で日々を過ごすうちに、神様に導かれながら新たな常識を獲得してきたわけです。
そんな具合で手を引かれながら幻想郷で生活している早苗さんですが、いつかは誰かの手を引く日が来てほしいものですね。
高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第十回:風吹く湖畔のしじま #東風谷早苗 おわり