高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第九回:魔法の森のよすが #霧雨魔理沙
幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。
初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生と申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。
魔法の森のよすが
霧雨魔理沙は、魔法を使う人間です。
東方Projectの世界で魔法を使うキャラクターは「種族:人間」か「種族:魔法使い」のどちらかですが、魔理沙の場合は前者です。四魔女のほか三名――パチュリー・ノーレッジ、アリス・マーガトロイド、聖白蓮は後者で、なかでも聖白蓮は「元・人間」であることが語られています。
魔理沙の能力は「魔法を使う程度の能力」で、旧作における二つ名は「魔法と紅夢からなる存在」でした。win版では「普通の魔法使い」となっており、いずれも魔法という単語がキーになっています。霧雨魔理沙の存在は魔法と切っても切り離せないものと言っていいでしょう。
そんな魔理沙の代名詞であるスペルカード、恋符「マスタースパーク」。ゲーム画面が揺れるほどの威力で放たれる、「弾幕はパワー」を正しく体現するスペカですね。魔砲「ファイナルスパーク」なんていうのもあったり、魔砲少女を名乗るに十分な実績でしょう。
同時に、霧雨魔理沙といえば星の弾幕をイメージする場合もあるでしょう。そのあたりのバランスが彼女を人間の魔法使いとして成り立たせているのかもしれませんね。まあ、これも怪しい話ですので話半分くらいでお付き合い頂きたく思います。ほら、魔法ってあやしいものですし、恋だってふわふわしたものなので。
知は力なり
弾幕はパワーらしいですが、パワーってなんでしょうか。よく言われるのは「力こそパワー」ですが、歴史的に有名なのはフランシス・ベーコンの「知識は力なり」でしょうか。パワーの基礎は、知識ということになります。
語源を辿っていくとその言葉についてなんとなく詳しくなった気分になれて楽しいので、「知識」についてもやってみましょう。ラテン語から追ってみます。別にラテン語があらゆるものの根源というわけではないのですが、大体はラテン語あたりで一度収束するので参照しやすいんですよね。
というわけでラテン語です。だいたいローマ字読みなので発音だけならそんなに難しくない言語ですね。「知る」はscireという動詞です。「私は知る」はscio、現在分詞は英語と同じく「〜している」ということですから、sciensは「私は知っている」くらいの意味ですかね。それを名詞化してscientia「知識」となるわけです。よく知られた言い回しではscientia est potentia.ですが、英語だと近い単語でScience is potential.となるのでしょうか。ポテンシャルだと可能性ですね。ラテン語potentiaから英語potential,possible,powerなんかが派生するようです。一般的な言い回しではKnowledge is power.となりますね。つまりパチュリーさんはパチュリー・パワーとなるわけです。なりません。
この場合の知識とは、自然についての具体的な知識となります。昔の言い方だと自然学、現在では自然科学と呼ばれるもの、特に実験を重要視する分野がそうでしょう。目に見えるもの、触れられるものを操作することを通して世界に対する理解を深めていくわけですね。
こちらの成果は(スペルカードにおいては)特に魔符に生かされているのではないかと思います。星はきらきらと綺麗なもので、そんな手の届かない夜空を自らの知識をもとに、手の届く範囲で再現しているのでしょう。自分が綺麗だと思うものはみんなもそう思うに違いない、と。
ところで、世の中には目に見えないものについての知識というものもあります。その代表とも言えるものが形而上学と呼ばれるものであり、愛と恋とかそのへんなんですが、人によってはオカルトと言うかもしれません。
乾坤九星八卦良し
「科学とは世界の神秘を探求する学問ではない」と言った人がいるんですけれど、逆に言えば科学で扱うのが適当ではない物事について扱う学問がある、ということです。
例えば九星気学という学問がありまして、まあ占いなんですけど。一白水星とか六白金星とか。一白水成だと美味しい日本酒ですね。お酒はさておき、じゃあ占いってなんなのさという話になるわけですが、運命とか未来とか目に見えないものを扱うのが占いの主戦場です。九星気学は複数の形而上学を組み合わせたものであり、非常に複雑なので詳しい解説は省略します。興味のある方は調べてみてください。占いの扱う分野は主に運勢とそれに伴う未来、つまり自然科学では扱えない領域となります。科学にだって出来ないことぐらいありますし、適材適所です。
自然科学は形而下の、つまり目に見えるものについての学問です。それに対して形而上学は目に見えるものを成り立たせているものについての学問です。ちなみに、形而上・形而下は八卦・六十四卦を扱う易経に出てくる言葉のようですね。自然学がなぜ成立するのか、自然学はどういった前提のもとで語られているかという問題に、自然学を一通り学んだ後で取り組むのが形而上学という学問です。扱う対象は魂、世界、命、意味、価値、正義、真理、善悪、美醜などです。現代の学問で言うなら倫理学や論理学、美学や文学が近いでしょうか。人文系の学問です。
何事も過ぎたるは及ばざるが如しといいますが、学問を押し進めた極端な立場から「世界は意味を持った物体で構成されており、世界はブロックを組み立てるようにできている」という発想があります。世界は私が経験する前に(私がいてもいなくても)既に出来上がっているという立場ですね。マイクラみたいに、全部ステータス化されている世界です。
科学や形而上学が力を持ちすぎるとそうなります。学問を通してしか世界をみることができなくなってしまう。学問は信仰対象ではなく世界を理解する手立てなので、帰依しちゃだめです。考えなくていいから分かり易くて楽なんですけど、たまには自分が眼鏡をかけていることを思い出さないと。
忘れがちなのですけれど、世界をゲームのように楽しむことは可能ですが、世界はゲームではないのです。
魔法の使い方
では、ゲームではない世界で、魔法を使うとはどういうことなのでしょうか。「魔法」という言葉から探ってみたいと思います。
魔法とは魔であるような方法のこと、もしくは魔が使う手段と解釈できます。魔とは鬼であり、修行の邪魔をするものであり、なんだか幻想郷には思い当たる人物が結構いますね。彼女たちに共通するのは、人間ではないという点です。さらに言えば一般的な神でもありません。普通の神様の御利益から外れたところにいる存在であり、ときには祟り神と呼ばれたりもします。邪悪ですね。
魔法は左道とも呼ばれ、左は場合によっては右よりも劣った、忌まわしいものとして扱われます。左はラテン語でsinisterで、これは英語でsinister「不吉な、邪悪な」という意味になります。占いで左側は不吉だとされたかららしいですが、ゲルマン祖語に由来する英語left”左”も語源を辿ると「(右に比べて)劣った」という意味の言葉に行き着くとか。そういえば日本神話の国生みの場面で、左回りはイザナミですね。なにか関係あるのでしょうか。ちなみに右はラテン語でdexter、英語に入ってdexterity”器用さ”という言葉になったりしてます。ゲームのステータスでDEXといえば器用さです。筋力(STR)、知力(INT)なんかと並んでるアレですね。
ヨーロッパ系の言語で語源を辿ると、だいたい印欧祖語に行き着きます。これはインド-ヨーロッパ語族という括りがあり、昔のユーラシア大陸からインド亜大陸にかけての地域ではきっとこんな感じの言葉が話されていたに違いない、という前提のもとで想定された言語です。実際にそのまま使われていた言葉というわけではなく、音韻変化を考慮すると現在の言語というのはだいたいこういう語根から派生したんじゃないか……と想定される根源にあたる言語ですね。
例えば「*méǵh₂s」という印欧祖語からは、サンスクリットでマハーカーラ(大黒天)の「マハー」”大きい”という言葉に、ギリシャ語ではメガ盛りなどに現れる接頭辞の「メガ」”大きい”という形に派生していったと考えられます。英語で言うと「マッチ」”たくさんの”ですね。あとメジャー。世界史で習う大スキピオはスキピオ・メジャーです。
magicの語源と考えられている「*megʰ-」は、英語ではmachine”機械”といった形にもなっていますし、ドイツ語ではMacht”力”として現れています。ギリシャ語にはΜάγος(Magos、特にゾロアスター教の神官)として、またその技術としてのマギケ、つまり今で言う形に近いマジックが出てきました。神官はラテン語では単数Magus,複数Magiとして現れます。これが英語に伝わりメイガス、マギになるというわけです。英語はスペルから読み方が決まらないので厄介さんですね。
盛大に回り道をしましたが、魔法とは異教の神官の技術だったわけです。古代ギリシャ人にとって異教は脅威だったでしょう。彼らは同じ言葉を話す人々を女神ヘレネーを祖とするもの――ヘレネスと呼び、異国人たちを訳の分からない言葉を話すもの――バルバロイと呼ぶことで敵味方の区別をしていました。自分たちと違う信仰を持つものは、少なくとも味方ではない。自分たちの知らない技術を持つものは、日常にいてはいけない。それらは秩序の中の混沌、例えるならば畑に生えた雑草である。そう。雑草ってなかなか根絶やしに出来ないんですよ。草むらには何が居るかわからないです。ピ○チュウとか飛び出してくるかも。
片付け(られ)ない魔法使い
そんなこんなで魔法の森に居を構えている霧雨魔理沙さんですが、彼女の家は散らかっていることで有名です。死ぬまで借りているものは一体どこにしまってあるのか、本人は把握しているのでしょうか。いや、筆者も整理整頓に関してはあまり他人のことは言えないんですけれど。
整理整頓が得意な人は、おそらく日々のルーチンワークも得意だと思います。世界の秩序を自分のものにしている。あなたの時間も私のもの。いや、お掃除は進まないものですが。
片付けが進まないとどうなるかといえば、つまり自分の知らないものに囲まれていることになります。ポジティブに捉えるなら、それだけ思いもよらない刺激にあふれているわけですね。セレンディピティとかいうらしいですが。好意的に解釈するならば、既知の世界に安住しない好奇心が、彼女の部屋を散らかしている原因と言えるでしょう。
誰かの大事にしていたもの――コレクションを眺める時、前の持ち主はそれに対してどのような気持ちを抱いていたのかを想像して追体験することで、世界に対する新たなスタンスを獲得できます。
ただし、未知の世界に新たな解釈を加えることで世界を新たに創造していくことはあくまでも手法であって、大事なのはそのモチベーションです。霧雨魔理沙にとってそれは、正邪のような反抗心ではなく、外部・世界・他者への憧れが担っているのでしょう。もしかしたらそれを恋と呼ぶこともあるかもしれませんね。
鬼の力と恋の魔法
恋符には元ネタがあるというのは、有名な話です。恋符「マスタースパーク」は『東方幻想郷』五面の幽香の弾幕から、恋符「ノンディレクショナルレーザー」は『東方紅魔郷』四面のパチュリーの弾幕からパクr……インスパイアされたものですね。どちらもスペルカードとして使われたものではないので、名前をつけてスペルカード化したのは魔理沙になるわけですが。弾幕の派手さに惹かれ恋い焦がれ、自分でもやってみたくなったのでしょう。
恋とはするものではなく落ちるもの、とよく言いますし、基本的には自分の管轄外のものです。完璧に管理された恋心は、もはや恋の名に値しないでしょう。基本的に恋とは自分の手元に無い、手の届かない対象への憧れと言えます。ないものねだりです。
鬼の力とは人間には扱えない不思議な力であり、人はそれを真似るために様々な手立てを用いて試行錯誤し、模倣を通してさまざまな魔法を使えるようになっていきます。形をなぞり、心に沿い、換骨奪胎し、自家薬籠中の物とするわけですね。それでも、人が人である限り鬼の業に至ることはありません。マスタースパークが恋符であり続けているのは、どこかで自分のものではない、自分は人間だという意識があるからなのでしょうか。
人生の指針として、信仰する神に従うのではなく、自分の過去に向き合い未来を見据えるのでもなく、夜空に憧れ空を飛び続けるあり方こそが、霧雨魔理沙らしいと言えるかもしれません。
ところで、そうして夜もすがら進んだ先には何があるのでしょう。夜も森も、人間の世界ではありませんよね。霧雨魔理沙さん、カオスとの相性が良すぎるので心配です。
高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第九回:魔法の森のよすが #霧雨魔理沙 おわり