東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第七回:地獄に咲く蓮華 #四季映姫・ヤマザナドゥ

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

地獄に咲く蓮華

 四季映姫・ヤマザナドゥは、元地蔵の閻魔様です。二交代制で幻想郷の死後の裁きを担当しています。アシンメトリーな髪型がチャームポイントですね。あと割と背が高い。

『週刊東方キャラクター』四季映姫・ヤマザナドゥ

二次創作からキャラクターを語る“東方我楽多叢誌っぽい”キャラクター図鑑

 能力は「白黒はっきりつける程度の能力」で、何者にも影響されず死者の魂を裁いていきます。閻魔様ですからね。鈴仙いわく、波長とかじゃなくて位相がちがうっていう話ですし。

 二つ名は「楽園の最高裁判長」。このあたりはヤマザナドゥという役職名にも関わりますね。Xanaduザナドゥ(桃源郷)のYamaヤマ(閻魔)なので。そのまんま、幻想郷の閻魔様です。

 テーマ曲は六十年目の東方裁判 ~ Fate of Sixty Yearsで、私も人気投票で必ず票を入れるくらい好きだったりします。

 彼女は結構、いやかなり四角四面で真面目な性格をしているので、怪しい話をする余地が無い気がします。そこをなんとか崩せたら良いな、なんて思うんですがどうでしょう。今回もなんとなくお付き合い頂ければ幸いです。

 

三国伝来

 個人的には閻魔様といえば『真・女神転生』で池袋スガモプリズンに出てくるLight-Chaos悪魔である天魔ヤマですね。裁くのにChaos属性というよく分からなさで有名です。あれ、ヤマじゃなくて閻魔の話では? 

※D×2 真・女神転生リベレーションより

 というわけで、閻魔様の来歴からおさらいしていていきましょう。

 インド神話『リグ・ヴェーダ』では、最初の死者ヤマとして語られています。最初の人間はマヌ、死者はヤマです。ヤマには妹であるヤミーがおり、ヤマが死んだときいつまでも「今日ヤマが死んだ」と嘆くので、夜を作り昼を分かち時間を進ませることで悲しみが薄れていった――というお話があります。エモいですね。

 ともあれ、ヤマはもっぱら死者の王として語られます。当初の死者の国は地獄のようなものではなく、単に死者たちが最後に至る場所だったらしいです。時代が下ると「死んだ後も再び死ぬ」とかいう後付設定が生えてきて、結構地獄めいてきます。なんとなく閻魔様っぽくなってきましたね。このへんで、欲界第三天である夜摩天にいる夜摩と分離した感じでしょうか。

 中国、道教ではもともと東岳大帝とうがくたいてい泰山府君たいざんふくんが死者の王として祀られていました。同じく死者の王であるヤマも同列に祀られるようになり、なんやかんやあって十王に名を連ねる事になります。

 ちなみに、現代日本のお葬式では大体「初七日・三十五日または四十九日」も一緒に執り行うことが多いように思いますが、この三十五日というのが閻魔王、四十九日が泰山王の審判の日にあたります。唐は官僚制ですから、地獄も官僚制です。この辺でヤマは閻魔王という神仏であり、同時に役職でもあるという感じになってきたのかもしれません。死者の魂を管理する機構として地獄があり、そこには十王という役職があって……云々。

 そのシステムが日本に渡ってきて、地獄の機構を担う官僚組織の人員は現地採用されたわけですね。閻魔王の本地仏として地蔵菩薩が当てられ、お地蔵様が閻魔様になった、と。十王と言いますが、現代日本では道教(泰山府君)はそんなにメジャーじゃないですし、実質的に死者の裁きは閻魔様が担うことになっているのだと思います。

 江戸時代の上方落語である『地獄八景亡者戯じごくばっけいもうじゃのことわり』という、鯖に当たって死んだ若旦那が地獄観光をした後で、どうにか生き返ろうとあれこれするお話があります。そこで出てくるのは閻魔様だけなので、江戸時代にはもう十王の影が薄くなっていたのでしょう。

 

地蔵信仰

 ここで、閻魔王と習合した地蔵菩薩について見てみましょう。お地蔵様はその辺によくいるくらい人気の仏様ですが、なにがそんなに民衆に受けたのでしょうか。

 地蔵信仰が流行した平安時代は、末法マッポーの世だと思われていました。イヤーとかグワーとか言う感じの。末法思想とは、釈迦入滅後にその教えが正しく伝えられている世(正法)、形だけなぞられている世(象法)、もうダメぽ(末法)という順で世の中は悪くなっていくという思想であり、つまりもうずっと末法。次の救いはいつ来るかと言えば、弥勒菩薩は5,670,000,000ごじゅうろくおくななせんまん年後なので、生きてるうちにはちょっと無理そうですかね。そんな釈迦入滅から弥勒降臨の間の末法の世にあって、人々を救ってくれるのが地蔵菩薩だと言われています。ちなみに昔『仏ゾーン』っていう漫画がありまして。なんでもないです。

 お地蔵様といえば、子どもたちを救ってくれることで有名ですね。水子霊のことです。「賽の河原地蔵和讃」という歌(?)がありまして、個人的には人間椅子の『賽の河原』の方を思い出すのですがさておき、石積みをしている子供たちの霊を地蔵菩薩が救ってくれる内容ですね。関西の方の地蔵盆は子供のお祭りのようですし、子供好きのお地蔵様ってほっこりしますね。

 ところで、お地蔵様(仏像)はもちろん地蔵菩薩そのものではありません。像としてのお地蔵様は、その多くが道祖神として祀られていると思います。集落の境界に、塞の神さいのかみとして。場所によっては家の敷地の境界に置くところもあるでしょう。筆者の地元では「おんにょさま」と呼ばれる塞の神が、集落の外れにあるお堂の中に祀られていました。鬼王様、というより多分お仁王様ですね。鬼神ニオウもまたLight-Chaosの悪魔ですが……これは東方Projectについてのエッセイでした。

 集落に悪いものが入ってこないように像を境界に置くというのは、さまざまな地域に見られます。岐の神くなどのかみは主に境界の出入りを司る神ですが、塞の神はその名の通り道を塞ぐ通せんぼの神です。賽の河原ですし。同じ境界の神でも違う特徴があるわけですね。余談ですが、道祖神には夫婦和合や石棒の像など、わりとセクシャルなものもあり、このへんはどちらかと言えば秘神Light-Neutralっぽい感じがします。マターラ。

 末法の世で衆生が救われるためにはお地蔵様に頼るのが近道でしたし、遠くにあるすごいお寺に行かなくても、お地蔵様ならそこらへんにいます。会いに行ける偶像としての人気もあったことでしょう。魔法の森にもいますしね、お地蔵様。

 

小野篁と地蔵菩薩

 前回取り上げた小野篁おののたかむらですが、地蔵菩薩とも縁があります。ある時、小野篁が病を得て寝込んだ際に、地獄に行って地蔵菩薩に救われ地上に戻ってきたそうです。その感謝を忘れないように、桜の木から地蔵菩薩像を六体彫り出し、色々あってその地蔵菩薩像が京都の六地蔵めぐりの地にあるとか。彫刻の才能もあったんですね。

 あとは、地獄と行き来出来る伝手をネタに、矢田寺のお坊さんを地獄に連れて行ったら地蔵菩薩に出会って、そのお坊さんが地蔵菩薩のファンになっちゃったせいで寺の推し(本尊)が地蔵菩薩になったとか。いや、そうはならんやろ。なっとるやろがい。まあ矢田寺と言えば成美ちゃんですから無理もないですね。

 小町なのか成美なのか、誰の話をしているのかわからなくなってきました。映姫様についてです。真面目にやらないと怒られちゃいますね。善行を積まないと。小野篁はお地蔵様が大好き、と。

 

善行楽しいよ?

 善行を積んでも成仏できるとは限らないと言う話もありますが、それは悪人正機あくにんしょうき阿弥陀如来あみだにょらいの話なので。お地蔵様は会いに行ける仏様ですから。さておき、自分の冥福のために生きているうちから修行するというのは自然な発想です。では、具体的に何をすれば善行になるのでしょうか。

 花映塚の映姫様の台詞から読み取れるのは、おのれの分を全うしろということです。社会における役割を自覚し、それに従って生きることが善行と言われているようです。巫女は巫女らしく、メイドはメイドらしく、天狗は天狗らしく、妖怪は妖怪らしく。それが閻魔として示すことのできる善行ということなのでしょう。命ある存在として、自分に与えられた役割を全うすることが善行です。

 それって悪人正機【※】とどう違うのかと言えば、自分の行いの善悪だけでなく、社会に対して与える影響についても考えなさいという視点が入っているところでしょうか。どうせ助かるのだからなにをやっても良いだろう――というのではなく、自分の振る舞いは他人の毒になるかもしれないという可能性を考えなさい、と。社会をいたずらに乱すような行いを慎む理由付けができるわけです。いらんことを記事にしない、みたいな。

【※】悪人正機:阿弥陀仏の本願は罪深い悪人を救済することであり、悪人こそ仏の教えを聞いて悟りを得る能力・資質を備えた、往生するにふさわしい者であるということ。親鸞しんらんの思想の根本をなす考え方。

 

泥中の蓮

 地蔵菩薩は衆生を救い、閻魔王は死者を裁く。一見すると正反対のことをしているように見えるのですが、実際はどうなのでしょう。衆生とはもちろん生きている人間たちのことであり、肉体に魂が備わった存在です。死者はといえば、肉体を失った魂のことになります。つまり、地蔵菩薩も閻魔王も、魂に関わっているという点で共通していると言えます。

 魂の動きを辿ってみると、生きている間は肉体にくっついているので見つけやすいのですが、死んでしまうと肉体という目印がなくなってしまうので、見失いがちです。とは言え魂は輪廻転生し再び肉体を持って生まれてくるので、また見つけることができるようになります。見えないだけで、そこには確かなサイクルがある。そう考えることができるでしょう。

 妖怪は、人間よりも長い寿命と強い力を持っています。妖怪のいる世界に生きている人間は、再び妖怪の居る世界に生まれ変わることでしょう。魂の大きな流れを形作るのは妖怪です。特に力の強い、例えば四季のフラワーマスターと呼ばれる風見幽香とか、ただ強くて長生きなだけでも、魂の流れに強い影響があるわけです。その大きな流れに乗っかるようにして人間が輪廻転生を繰り返すと思えば、この世界は巨大な魂の交通網のように見えてくるのではないでしょうか。

 全体として魂を循環させ、はぐれたものは地蔵菩薩として流れの中に回収し、迷惑運転を繰り返す輩は閻魔王として地獄に隔離する。あまり隔離しすぎると地獄が溢れてしまうので、正常な輪廻に乗れるよう善行を積めと説教をする。安全運転は大事。

 四季映姫という在り方は、ヤマザナドゥという役割を全うしています。泥に染まらない蓮の華のように、魂の流れに染まらない存在として幻想郷に顕現しているのでしょう。蓮の花って、わりと背が高いんですよ。

 

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第七回:地獄に咲く蓮華 #四季映姫・ヤマザナドゥ おわり

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