東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第六回:三途の川の彼岸花

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

三途の川の彼岸花

 小野塚小町は死神です。三途の川の船頭死神であり、持っている鎌はただの小道具です。「東方緋想天」では思いっきり振り回して攻撃してましたけど、小道具です。パチュリーさんの本みたいなものです、きっと。

 能力は「距離を操る程度の能力」で、三途の川の川幅だけでなく距離であれば基本的に操れるようですね。なんででしょう。

 二つ名は「三途の水先案内人」です。まんまですね。拓落失路たくらくしつろの死神」というのもあります。拓落失路とは落ちぶれて出世の道が閉ざされた状態という意味らしいですが、落ちぶれたということは、元々はそこそこの地位に居たということでしょうか。約一名からは「サボタージュの泰斗たいと」と呼ばれたりもしていましたね。

 BGMは「彼岸帰航 〜 Riverside View」。ヒガンルトゥールです。彼岸に帰っていくのか、彼岸から帰ってくるのか。いずれにせよ、私の好きな曲です。

 

くれないの 舞い散る旅で 土となる 風は河波 私は渡し

 こまっちゃんといえば、和歌を詠んだりして教養のあるところを見せたりするので、普通に育ちがいいのかもしれません。ですが、なんで不人気な船頭死神なんてやってるんでしょうか。

 ともあれ、私は不調法者ぶちょうほうもので和歌は詠めませんが、読むことなら出来そうなので、試しにやってみましょう。

くれないの 舞い散る旅で 土となる 風は河波 私は渡し

ーー『東方三月精』より、小野塚小町の句

 各単語とそれにまつわるイメージを書き出して組み合わせてみると、なんとなく読めた気になりませんか? なりませんか。一応、修辞法からきちんとした読み解き方が有るのかもしれないのですが、ここは気の向くままに。

「くれないの」というのは、素直に紅色の何かと読んでいいでしょう。

「舞い散る旅で 土になる」というのは、舞い散る何か(たぶん花びら)が旅先、つまり散った先で土になる、花びらとしての姿を終えて土に還るということでしょう。

「風は河波 私は渡し」という部分は、その花びらを散らせた風は河に波を起こし、私はその河で渡しをしているのだ、というくらいの意味だと思います。ここで「私」と「渡し」が掛かっていますし、ほかの部分にも二重の意味が込められていると思って読んでいいでしょう。

 渡しというからには何かを渡す仕事であり、つまり三途の川を渡すわけですから、これは幽霊の歌だと分かります。

 そこまで思い至ってから冒頭をもう一度見返すなら「くれない」は血潮、つまり生命かもしれないと解釈できます。であれば舞い散るのは命であり、旅は死出の旅路、向かう先は三途の川の河原であり、河波の立つこの三途の川で、私が霊たちを彼岸に渡してあげよう……とも読めますね。これらふたつの意味を重ね合わせたものが、この歌の意味だと言えるでしょう。重層的な和歌だと思います。

 ちなみに、下の句は「”か”ぜは”か”わなみ”わ”たしは”わ”たし」と頭韻を踏んでおり、声に出して読みたい日本語ですね。いいライムです。リリックが凝っているけれど口ずさみやすい。過度に修飾的でなく、親しみやすい。小野塚小町の人柄そのままのような歌ですね。

 上記の読解はいま適当に考えたのでだいぶ怪しいことを言っている気もしますが、いつものことです。以降もいつものように怪しい話ですが、いつものことなのでお付き頂けると幸いです。

 

百人一首と六歌仙

 せっかく和歌の話をしたのですから、もう少し続けてみましょう。

 “六歌仙”という言葉があります。『古今和歌集こきんわかしゅう』の『仮名序かなじょ』で取り上げられている、六人の歌人のことですね。『仮名序』はその名の通り平仮名で書かれた序文で、作者は紀貫之きのつらゆき(866-945年)です。実は『竹取物語』の作者かもしれないという説もある人物ですね。ちなみに『真名序まなじょ』というのもあって、こちらは漢文で書かれています。作者は紀淑望きのよしもち(?-919年)です。紀氏は文学に優れた家系ですね。

 その六歌仙ですが、みなさまご存知百人一首にも勿論選ばれています――ひとり以外。『百人一首』の選者は京極黄門こと藤原定家(1162-1241)で、彼は東方関連でいうと西行法師(1118-1190)と大体同じくらいの年代の人です。鵺退治で有名な源三位頼政(1104‐1180)とも年代が重なります。どんぐり拾ってる人ですね。藤原定家は鎌倉幕府第三代将軍源実朝(1192‐1219)の歌の師でもあります。父である藤原俊成と並び、当時の和歌の世界の第一人者です。大伴黒主が選ばれなかったのは何かの意図があってのことでしょう。

 そもそも、六歌仙の歌ってそんなに良いものでしょうか。いや、和歌のことはあまり良くわかりませんが。文屋康秀ふんや の やすひでのなんて「山+風=嵐」以上の読みようが無いんですが、これって謎掛けですよね? 上手いこと言ったった、みたいな。

 そういう事情があり、『百人一首』は優れた歌を百首集めたのではなく、歴史上の有名人の人物像をよく描き出したものを選んだとか言われたりするようです。和歌集ではなく、歴史絵巻であると。たぶん本当にそうなんですけど。

 

小野篁 広才のこと

『百人一首』で私が一番好きな歌は、大納言公任の

滝の音は 絶えて 久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

です。意味もそうですが、頭韻を踏んでいるのでリズムがいいんですよね。特に下の句の「なこそながれて なほきこえけれ」の「な」で刻むあたりが。

 藤原公任ふじわらのきんとう(966‐1041)は藤原氏小野宮流の絶頂期に生まれた人物で、様々な才能に恵まれたと言われています。『和漢朗詠集わかんろうえいしゅう』の選者であり、和歌、漢詩文には特に優れていたようです。そんな彼ですが、同時期に藤原道長ふじわらのみちなが(966‐1021)がおり、まあそういうことです。公任もまた、滝の音が絶えて、名が流れてる人ですね。

 その『和漢朗詠集』にも多く漢詩が採られているのが小野篁おののたかむら(802‐852)です。『百人一首』にも和歌が採られており

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟

というのがそれですね。ほかにも『古今集』に

泣く涙 雨と降らなむ 渡り川 水まさりなば 帰りくるがに

とか、まあ、河とか舟とかに縁の有りそうな人物です。

 日出処の天子云々の書状を持っていった遣隋使として有名な小野妹子の子孫で、自らも遣唐副使に選ばれるほど優秀な官吏でもあり、小野小町の祖父(?)と言われ、有能過ぎて朝廷と地獄のダブルワークをしてたとか。子の字を十二個並べたものを「子子子子子子子子子子子子ねこのここねこししのここじし」と読んでみせるくらい頓知も効く。高身長エリート文武両道イケメン反骨心持ちとか、なろう系ヒーローでももう少し遠慮するというか、とにかく設定盛り過ぎなので削って下さい、みたいな人ですね。

 小野篁は遣唐副使を任されたわけですが、正使である藤原常嗣ふじわらのつねつぐの舟が水漏れしたから舟を交換するように言われ、キレて仮病を使ってばっくれたという話が残っています。さらに、遣唐使という時代遅れの事業やそれをやめない朝廷を風刺する歌を作ったとか。そんな政治犯のような振る舞いをしたため、隠岐に遠流になったそうです。流罪には近流(越前・安芸)、中流(信濃・伊予)、遠流(佐渡・伊豆・隠岐・阿波・土佐・常陸)があるらしく、一番重い刑に処されたわけです。何を言ったらそんなことになるんでしょうね。

 当時の流罪、特に遠流はほぼ死罪なので、事実上の地獄送りにされたというわけです。百人一首に採られた歌も、このときに詠んだものだと言われています。死出の旅路に臨む辞世の句ですね。そんな具合に官位を奪われ遠くに流されたわけですが、あまりに有能だったので一年半後に赦されて都に戻り、官位も元に戻され再び朝廷に仕えるようになったということです。最近流行りの追放モノですか? まあ、実際は藤原氏に配慮した形だけの流罪だという噂もあるらしいのですが。

 いずれにせよ、小野篁は遠流になり、そして戻ってきたということです。つまり舟であの世とこの世を行き来したわけですね。おやまあ。

 余談ですが、篁の次の代の遣唐使は菅原道真で、こちらは時代に合わないからと再考していたら唐が滅んだので、無しになったみたいです。篁の判断も、上司とのいざこざだけが理由ではなく、遣唐使制度には先がないと見通していたのかもしれないとか。しらんけど。篁さんよく過労死しませんでしたね。もっとサボらないと。サボったせいで隠岐に流されたわけですが。

 

なぜサボるのか

 そもそも人は何故働くのかと言えば、食べていくためです。生活のために労働するのは、だいたい誰でも同じかと思います。ところが、人は何故か食べていくのに十分なだけでは飽き足らず、自分の身を削ってまで働き、最終的には過労死してしまうこともあるようです。その狂気とも言えるモチベーションはどこから来るのでしょうか。

 答えはもちろん、宗教です。……とだけ言ってしまうのは語弊があるので少し詳しく見ていきます。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫 白 209-3)。画像はAmazon.co.jpより。

 有名な本ですが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではカルヴィニズム、特に予定説について触れられています。ざっくり説明すると「救われるかどうかはその人の誕生以前に決められている」という説です。つまり、人間がどれだけ善行を積んだとしても、そのことを神が評価することはない、ということですね。人間が神に影響を与えられるわけがありません。

 じゃあなんで人は勤勉に労働に励むのかと言えば、全知全能の神に救われるべきは堕落した生活を送る愚者ではなく、勤勉で合理的な生活を営む者であるべきだという意識があるからでしょう。過去から未来まで一望のもとに出来るような「時間を超越した存在」にとって、誰を救うかはもう決まっている事柄です。

 カトリックのように免罪符という形で神の決定に干渉できるという態度を良しとしないプロテスタントとしては、予定説――つまり、我々の行為は神に届かないという点は動かし難く、同時に全知全能の神がいる世界は決定論的であることも否定できなかった結果、神に定められた自らの職分を全うすることで自分が信じる神の威光が増すという発想に至ったのでしょう。

 我々の信じる神は、こんなにも禁欲的で勤勉な、清く正しい生き方をしている信徒に崇拝されていると。忠誠心が強さになる、どこぞの造形神と埴輪みたいな話ですね。あと人間霊。資本主義に都合のいい禁欲とか勤勉とかいう要素は、ここで培われていたわけです。筆者はキリスト教徒ではないのでよくわかりませんが。

 似たような話が浄土真宗の悪人正機説にありますね。筆者は仏教徒ではないので聞きかじりです。浄土真宗は阿弥陀仏による絶対他力の救済を謳うわけですが、そもそも悪人とは何でしょう。我々の行いに悪がひとつもなければ善人であり、そういう人間は勝手に往生します。ところで、悪のひとつもない人間など居るでしょうか(反語)。

 というわけで、悪人とは自分が善人にはなれないと理解している人々であり、善人とは自分が実は善人ではないことに気付いていない人々のことです。世の中実際は悪人しか居ないけれど、自覚の有無は有る。

 阿弥陀仏はあまねく衆生を救いたいのですが、自覚のない悪人は救いの手を取ろうと思わない。我々はみんな悪人なのだから、善行を積んでいるから大丈夫だなどと高をくくらず自らの職分に励まなければならない。ここでも善行と救済に因果関係はないわけです。関係ないなら悪行三昧でも良いかといえば、薬があるからって毒を飲むこともないだろうという話でもあり。

 どちらも大事なのは、神仏の救済は人間の行動と因果関係が有るわけではないということです。善行を積めば大丈夫などということはなく、救われるかどうかはさておき善行を積み続けなければならない。それは何故かと言えば、我々には倫理観が有るからです。

 自分の行動が誰かに承認されているという自覚は、人を安楽にします。宗教的な振る舞いは予め行為の善悪を保証してくれるので、自分の行動を振り返らなくても良くなります。「あの時にああすれば……」などと自責の念に駆られる必要も、なくなります。

 倫理観の固定化は判断力の麻痺をもたらし、神仏への忠誠心は強さになります。禁欲と勤勉を誇ることは奴隷の鎖自慢となり、それは自由な市民で構成されるべき社会に対する破壊的な振る舞い、謂わば反社会的行動に繋がるでしょう。

 強化され続けた倫理観はやがて自らの身を破滅へと導きます。過労死は自死であり、同時に社会に対する破壊行為でもあるわけです。倫理が自家中毒を起こしているわけですね。てげてげって大事。こまっちゃんも「愚者は、自殺を正当化するという事が愚かという事に気付かない」って言ってますし。倫理に従うだけでなく、たまには自分の頭で考えないと。

 

五、隹、疋、矢

 何故こまっちゃんが花映塚でああも自殺の心配をしていたのかと言えば、真面目な人間は善行を積みすぎると容易に自殺に至ってしまうから――かもしれません。幻想郷には真面目な人間が居ないのだから、彼女らに自殺の心配は無用だという話なんですけど。善行と自殺が結びつくあたり、小町は真面目な側の存在なのでしょうね。つまり、サボタージュはわざとやっているわけです。わざとやんなきゃサボタージュにならないので語義的には当然ですが。

 六文銭は三途の川の渡し賃として有名ですが、六文の内訳は、六道の地蔵菩薩にそれぞれ一文ずつ渡すように、ということのようです。戦場に出るということを自殺と同列に語るべきではないでしょうが、止むに止まれぬ理由で六文銭を携えて死地に赴く例も有るかもしれません。そのお金は、船頭死神たちが回収して納めているのでしょうけれど。

 人を修羅場に駆り立てるその何かは、倫理だったり権力だったりするかもしれません。自死に追い遣られる前にNOと言えるように、自分の倫理は常に点検しておかなければいけません。服従を強いる権力には反抗する気概を見せるべきです。花は咲いているから綺麗なのであって、毒のある根を食べなければならないほど追い詰められてはいけません。引かれ者の小唄と嘲笑されようと、三途の河原で和歌のひとつも詠むような余裕は欲しい。

 そんな小町の放つ小銭弾に、こう刻んであったら素敵な気がしませんか。

吾唯足るを知る

 

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第六回:三途の川の彼岸花 おわり

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