東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第三回:幻想郷の日巫女

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

幻想郷の日巫女

 八雲紫境界の妖怪です。多様な、ありとあらゆる境界を操作するようですし、異世界を渡り歩く事もできるようです。神隠しの主犯にして割と困ったちゃんという、割と全自動迷惑発生装置みたいな二つ名です。二次創作では黒幕役などが多いのも、そのあたりからでしょう。

 かなりのお洒落さんで、「妖々夢」ではドレス姿、「永夜抄」や「萃夢想」では道士服風の姿で登場しています。それ以降も、登場するたびに様々な服装で現れており、鈴奈庵では浴衣姿を披露していたりします。基本的にはドレスと道士服の二系統のような気がしますが、どちらが裏でどちらが表なのでしょうか。

▲「東方妖々夢 ~ Perfect Cherry Blossom.」より

▲「東方永夜抄 ~ Imperishable Night.」より

▲「東方鈴奈庵 〜 Forbidden Scrollery.」より

 あと、よく眠ります。ねぼすけです。海棠かいどうの眠り未だ足らずだと、酔っ払いですが。スリーピングビューティーですね。だれがいばら姫を起こしたのかは知りません。

 今回は、八雲紫の二面性の表側について見てみたいと思います。公的な、幻想郷の賢者としての側面ですね。公式胡散臭いキャラについての話なので、結局は胡乱うろんな話なのですが。

 

曹洞宗と菊理姫

 大丈夫です。ちゃんと東方Projectの話になります。そのうち。

 というわけでKikuriです。キクリヒメは白山比咩大神しらやまひめのおおかみで、生と死の境界の神ですね。もっと詳細に言うなら、生者と死者の間にいる白い神様。白装束は死者の旅路の姿なので、つまり葬式の神になります。いや、今回はキクリの話じゃありませんでした。

 まずは白山信仰について一通り押さえておきましょう。元々は、加賀の白山とそこから流れ出る雪解け水による恵みが信仰の対象であった、と考えられているそうです。その下地があった場所に、修験者である泰澄たいちょうが立ち寄り、修験道の方法論を適用することで、より体系的な宗教として信仰が洗練されていった……ということです。

 白山に登頂し開山した泰澄は、登山中に白山妙理権現はくさんみょうりごんげんに出会い、「自分の本当の姿を知りたければ頂上へ来い」と言われ、言われた通りに登った先で九頭竜に出会います。しかし、それは本当の姿ではないと泰澄が見抜くと、本当の姿である十一面観音として姿を現わしました。“権現”とは仏が神の姿で現れた姿であり、白山の周辺は宗教的な素地が十分に整っていたということでしょう。

 飛鳥から奈良時代のおおよその仏教僧は、山に登って色々とインフラを整え、産業を開発しています。有名なのが役小角えんのおづぬ空海くうかいですね。昔話で空海が杖をつくと水が湧いたりしますし、あのへんは正に山を開発したということなのでしょう。

 その後、道元どうげんが南宋への留学から帰国した後に、曹洞宗を日本に根付かせる基盤として選んだのが白山の麓であり、曹洞宗大本山である吉祥山永平寺の始まり、とかなんとか。曹洞宗の葬儀と白山信仰の関連について、色々と想像が広がりますね。仏教って別に葬式のための宗教ではないので、多分そのあたりに生と死の女神が関わってそうなんですけど。さておき。

 元々の地盤があり、そこで仏教を広めるという構図は、地主神じぬしがみ鎮守ちんじゅという構図で解釈できると思います。仏教を守る神がいて、受け入れる土壌があり、そこで地盤を確かなものにするというわけですね。幻想郷の地主神って誰かというと、それはまたそのうち。

 

もういくつ寝ると

 八雲紫といえば冬眠ですが、冬になると姿を見せなくなる、くらいに解釈しておきたいと思います。というわけで日周運動と年周運動の話です。

 一年で日照時間が最も長いのが夏至、最も短いのが冬至です。冬瓜を食べるのが夏至で南瓜を食べるのが冬至ですね。そして祝日なのが春分と秋分。神道では基本的にこの四日に重要な行事があります。特に夏越の大祓については、最近は茅の輪くぐりなどの行事で有名でしょう。疫病祓いです。神の力が旺盛になりすぎて人に害をもたらすようになったものを祓うものだと解釈できます。ということは農村における虫送りもその筋で捉えられるような気がします。虫の知らせサービス。

 日本国外に目を向けると、夏至や冬至の祭りは寧ろあちらの方が盛大なように思います。夏至の祭りは聖ヨハネの日です。セントジョーンズ聖ヨハネワートという名前のハーブがありますが、セイヨウオトギリソウのことですね。聖ヨハネの日は花祭りであり、セイヨウオトギリソウはそれくらいの時期に開花するのでそういう名前になったとか。そして冬至はみなさまご存知のとおり、クリスマスです。元はキリスト教以前にローマで盛んだった太陽神の祝祭で、日照時間が冬至を境に長くなっていくことを、太陽が力を取り戻していくさまだと解釈したわけですね。生と死の境界、というか、死から生への再生という感じで。

 何故季節があるのかということを説明する神話は、洋の東西を問わずあります。有名なのはギリシア神話にあるペルセポネーの略奪でしょうか。豊穣の女神デーメーテールの娘ペルセポネーが冥府の神ハーデースに攫われてしまい、紆余曲折あり取り返したものの、既に冥界の食物ザクロを口にしたペルセポネーは一年の三分の一(物語によっては半分)を冥界で過ごすことになり、その間豊穣の女神デーメーテールは恵みを地上にもたらさなくなった、つまり冬がやってきたというお話です。

 その流れでいくと、天の岩戸神話も太陽の死と再生と説明だと解釈することができますし、眠りは短い死なので、冬眠は自らを太陽と同一視させる儀式と解釈することも可能です。太陽と同一視、つまり日の巫女ですね。巫女ですか?

 

ドレスと道服

 リージョンフォームなのかブイズなのかはよく分かりませんが、大体わらべのバージョン違いですね。着ている服が違うくらいで。じゃあ童って何かと言えば、労働者です。河川の労働者なら河童、山の労働者なら山童、座敷の労働者なら座敷童となるわけです。ブラック企業の労働者は社畜です。童祭ですね

▲河城にとり(「東方風神録 ~ Mountain of Faith.」より)

▲山城たかね「東方虹龍洞 〜 Unconnected Marketeers.」より

 河童が山童の服を着たら山童になるかと言えば、多分服に着られている状態になるんでしょう。山童にもなれず、河童にもなれない境界妖怪マージナルマンになり、そのうち服に似合った妖怪に変化していくのかもしれません。人間は成長するにつれて名前に似てくるものらしいですし。

 つまり、服はそれを着ている存在が何者であるかの指標であると言えるでしょう。妖怪(私人)としての八雲紫がドレス姿であり、賢者(公人)としての八雲紫が道士服姿であるーーそう仮定してみたいと思います

 

七堂伽藍のつくりかた

 これは八雲紫だけではなく、現在妖怪の賢者だといわれる三名(紫・華扇・隠岐奈)について言えることなのですが、何故みんな道士服っぽい格好をしているのか疑問に思ったことはないでしょうか。

 その一つの可能性として、彼女たちが幻想郷における伽藍神がらんじんのような役割を担っているからだという説を唱えてみたいと思います。ささやき・えいしょう・いのり・ねんじろ。なんでもないです。

 伽藍神とは伽藍の守護神です。宋代仏教や禅宗寺院において守り神として、道教神の像を伽藍に祀るという習慣があります。伽藍とは仏教寺院を構成する建物のことであり、宗派によって異なりますが、いずれにせよ敷地も含んだ仏教的建築物のことを指します。ただの守り神ではなく、道教神であるという点がミソですね。

 道教とは民間信仰であり、仏教のように系統立った教義がある宗教ではありません。諸教混淆シンクレティズムが根本にあり、その展開は草の根的です。良く言えば自在、悪く言えば雑多な体系の宗教と言えるでしょう。どこがどう繋がってるか分かったものではない。つまり、歴史的樹状構造ではなく民俗的リゾーム構造をしているということです。要するに解きほぐせない。

 複雑さはそのまま豊かさと言い換えてもいいでしょう。つまり、道教的(非仏教的)地盤が豊かであることで、仏教が根付きやすくなる場合があるということです。そこでさらに一捻りを加えると、仏教的な秩序がある土地において神道的な共同体運営が容易になるということもまた、あるかもしれません。幻想郷において寺院が目立たないのは、幻想郷自体が巨大な仏教的建造物だからーーという仮説が立てられます。道教的に恵まれた土壌を仏教の教理で耕すことで、神道が浸透しやすくなるという構図ですね。駄洒落じゃないです。余談ですが、この辺ちょっと空海的な気がします。

 ともあれ、紫様は妖怪を受け入れるための空間として幻想郷を作り、そこの鎮守として太陽神の巫女的な生活をしているわけですね。二度起きて三度寝るヒミコ。

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第三回:幻想郷の日巫女 おわり

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