東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第二回:博麗神社に舞う蝶

幻想考察コラム:取り扱う内容は筆者の個人的な妄想を含む東方二次創作であり、公式の見解とは無関係です。

 初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。高村蓮生たかむられんじょうと申します。このコラムで取り扱う内容は個人的な妄想を含む二次創作であり、公式の見解とは無関係です。数ある解釈のひとつとしてお楽しみいただければ幸いです。

※編集部注:コラムの名前が「高村蓮生の『幻視探求帳 ~ Visionary eyes.』」に変わりました。よろしくお願いいたします。

博麗神社に舞う蝶

 博麗霊夢という少女は、博麗神社の巫女さんです。大体は、楽園で素敵に空を飛んでいる暢気な人間です。人間って空を飛ぶのですね。巫女さんだからですかね。

 そんな霊夢に初めてつけられた二つ名は「夢と伝統を保守する巫女」です。巫女さんと夢と伝統の関係とは、いったい何でしょう。「巫女さん」と「伝統」とは相性が良さそうですが、「夢」ってなんでしょうね。辞書を引いてもいいのですが、ここは巫女さんという存在の前提から考えてみたいと思います。これは怪しい宗教の話ではなく、ただの怪しい話ですので安心してお付き合い下さい。

 

神道の特色

 巫女さんとは、神道におけるシャーマンです。とは言っても、なんか紅白の服を着た女の人くらいの印象ですよね。巫女って何なのでしょう。巫女。みこ。ナースではないです。

 巫女さんとは何をする人なのかといえば、単に神社の庭を掃除したり、お守りを渡してくれるだけの人ではありません。神職が、神社にまつわるさまざまな行事を進行する上での補佐を行ったり、あるいは巫女舞を奉納したりと、イベントにおけるスタッフとして多様なお仕事をしています。ちなみに、女性の宮司さんもいるので、神道に関わる女性がすべて巫女さんというわけではありません。

 では、神道とはどのような宗教なのでしょう。神道には、キリスト教における聖書のような聖典がありません。教団というのもありません。いや、無いことはないのですが。

 神道の根本は祖霊信仰、祖先崇拝です。自分が生まれてきたのは親がいるからで、その親にもまた親がいる。「自分の元となる存在がいる」という意識が、宗教的な態度の基本になっているわけです。

 ですから、自分がどのように生きるべきか悩んだときには、神道では先祖の行いを参考にするわけですね。先祖が困難に直面したときにどのような対処をしてきたかを語り伝え、参考にすることで、これからを生きていく指針を見出す。既にあるものを維持しつつ、未来に役立てるのが保守という作業です。メンテナンスという作業なしに、生活は成り立たないものですし。

 つまり、霊夢さんは過去を踏まえて未来に進むタイプの少女ということになります。

 

惟神(かんながら)の道

 ここで、神道についてさらに詳しく見ていきます。具体的には、本居宣長もとおりのりながの思索をなぞりながら、神のいる社会とはどういうものかについて考えてみましょう

 本居宣長は『古事記』や『源氏物語』『古今和歌集』の研究を通じて、国学を大成した人物です。もののあはれを重視した人ですね。

 幻想郷的には、本居小鈴ちゃん関連でご存じの方も多いかと思います。鈴屋大人として京都で塾を開いていたとか。鈴屋大人は「すずのやのうし」と読むのですが、大人をうしと読むのは、主をうしと読むように、あるじという意味ですね。神主は「かみのうし」だから「かんぬし」なのであり、主は元々「うし」であり「ぬし」ではない、みたいな余談もありまして。まあ、本当に余談なんですけど。

 本居宣長は、日本には惟神かんながらの道があると言っています。それは天照大神から天孫降臨を通じ代々の天皇に至る道筋であり、つまりこの国が歩んできた歴史である、というわけです。国を治めるために仁義礼智だ、法だと持ち出すのは、そういうものがなければままならない土地だからだ。そういった漢意からごころに頼った統治をしなければならない国も確かにあるだろう。しかし我が国はそうではない。真心によって、共感を基本として成り立っているから――なのだとか。

 つまり、神の思考・判断を固定化してその振る舞いに従うのではなく、神に共感しその振る舞いを追体験しながら国を治めることが、惟神の道であると言えるかもしれません。日本の場合に適切なのは、儒教の礼や仏教の法ではなく、神の道であるという態度ですね。

 

惟神と維新

 話を国家規模ではなく、日常生活に戻しましょう。日々の生活において私たちは、さまざまな事柄を思考・判断しながら過ごしています。そのとき参考にする、私たちの判断基準とはどのようなものでしょうか。

 私たちは普段、よほど信心深い人でもなければ、ただ一つの規範(判断基準)にしたがって生きているということはありません。さまざまな場面で、さまざまな規範を使い分けながら日常生活を送っています。例えば、とある人物が生産者としては自分の作ったものを高く売りたいと思い、消費者としては安く買いたいと願うように。

 ではその規範とはどのようなものかといえば、私たちの内部から生まれるものと外部から強制されるもの、このふたつに大別できるでしょう。わかりやすく言えば道徳と法律であり、この二つはしばしば互いに抵触することがあります。

 例えば私には借金があり、手元には返済に充てるべき現金があるとします。同時に目の前には貧困にあえぐ友人がおり、手元の現金を融通すれば助けることができるでしょう。その場合、私はどのように振る舞うべきなのでしょうか。または、実の親が罪を犯した場合、告発すべきなのか、黙殺すべきなのかという設定でも構いません。大体の場合、解答としては「時と場合による」となるでしょうし、もっと多くの条件を加味してみないとわからないことのほうが多いです。抽象的な議論から常に具体的な結論が導き出せるわけではありませんし、一つの理論がすべての事象を説明しなければならないわけでもありません。世の中だいたい是々非々です。

 特に幻想郷においては、法ではなく人による統治が行われているようです。情状酌量というか、法治国家の人間から見ると、人の判断の自由度が大きいように思います。いや、そもそも法治国家は絶対の正義でもなんでもないんですが。

 

常識と非常識の結界

 我々の住む現代と幻想郷を比較して考えると、最も異なるのは人の多さだと思います。幻想郷の自然環境は日本と地続きですが、社会制度は大きく異なると言えるでしょう。

 まず、幻想郷には日本国憲法がありません。当たり前ですが、法体系が全く違います。だから少女が宴会を開いてお酒を飲んでも問題ないわけです。そして、基本的人権もありません。自然環境が日本と同じでも、基本的人権は勝手に生えてきたりしません。人権に限らず、日本国憲法に由来する法的権利は、幻想郷にはほとんどありません。憲法以外の筋道で担保されている権利もあるでしょうが、我々の知るそれではないでしょう。つまり、警察署も裁判所もないわけです。いや、警察官小兎姫とか裁判長映姫様とかいますけど、日本のそれらとは権力の背景が異なっていることでしょう。

 しかし、幻想郷には神がいます。何はなくとも神がいるので、大体は神様の言う通り、なのなのな、となるわけです。嘘ですけど。

 

 つまり、幻想郷は神様の世界で成り立っているということになります。なぜ人里の仕組みが寺ではなく神社中心になっているのかと考えると、そこには惟神の道を軸として作り上げられた共同体という姿が見えてくるような気がします。ですから、不要な漢意――易者は排除され、真心(本居小鈴)は受け入れられた……と、見ることもできるかもしれません。

 そんな神様のいる世界を維持・管理・保守するために、今日もハクレイのミコさんはひらひらと幻想郷を飛び回っているのでしょう。

高村蓮生の「幻視探求帳 ~ Visionary eyes.」第二回:博麗神社に舞う蝶 おわり

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