東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

     東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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あれ?大学入るまでゲーム以外のことほとんどしてないのでは?東方Project作者ZUNさんの半生を聞く(聞き手のひろゆきさんは2時間遅刻しました)

【第1回】

 ついにスタートした「東方我楽多叢誌」。その最初の企画として、「東方Project」(以下、「東方」)の生みの親であるZUN氏のロングインタビューを、全10回に渡ってお届けします。

 1996年に誕生し、2002年からはWindows用の同人ゲームとして展開されている「東方Project」。シューティングゲームを中心としたそのゲームの大半は、同人サークル「上海アリス幻樂団」を主宰しているZUN氏が、プログラム、ストーリー、イラスト、音楽に至るまで、そのすべてをたった1人で作り上げています。

 さらに現在では、ファンの二次創作による同人誌、同人ゲーム、アレンジ楽曲など、さまざまな形で「東方」の世界が拡大しており、その領域は、PlayStation 4やNintendo Switchといったコンシューマゲーム機、スマートフォンゲームにまで広がっています。

 今回のロングインタビューは、「東方」をイチから生み出したZUN氏自身の半生と、「東方Project」がこれまで歩んできた道のりを振り返ってもらう企画です。

 「東方」のキャラクターや音楽が気になっているけれど、そもそも「東方」とはどういうものなのかよくわからないという人でも、これを読めば「東方」の全体像と、その作者のZUN氏について知ることができる内容を目指して企画されました。

 この企画の聞き手には、匿名掲示板「2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)」の元管理人として知られる、ひろゆき(西村博之)氏にお願いしました。ひろゆき氏はZUN氏とよく酒を酌み交わしている友人なのですが、じつはひろゆき氏は「東方」について、あまりよく知らないとのこと。そのぶん、「東方」に詳しくない人でもわかりやすい視点から、「東方」とZUN氏の表と裏を、あれやこれやと引き出してくれるはずです。

 ……ところが取材の開始時刻になっても、ひろゆき氏が会場に現れないという緊急事態が発生! 対談相手が不在という異例の状況で、ZUN氏への取材がスタートしたのですが、いったいこの企画はどうなるのでしょうか……!?

ひろゆき氏不在で対談(?)がスタート

──今回はZUNさんとひろゆきさんの対談だったのですが……。やはりというかなんというか、ひろゆきさんはまだ来ていないですね(苦笑)。

ZUN氏:
 ちょうど今、起きたぐらいの感じですかね? 

──こちらに向かってはいるようなので、時間もないので先に始めましょう。ZUNさんといえば、まずは乾杯【※】からですね。こちらはお茶で失礼しますが、ZUNさんのためにいろんな種類のビールをご用意しましたので。 

※ZUNさんといえば、まずは乾杯
ZUN氏はインタビューやトークイベント、インターネットの生配信など、人前で話す時はほぼ必ず、お酒を飲みながら語るスタイルになっている。

全員:
 かんぱ~い!

ゲーム漬けの少年時代

──まずは、ZUNさんの生い立ちからお聞きしていこうと思います。小さい頃は、どんなお子さんだったのですか? 

ZUN氏:
 僕は長野の白馬村で生まれまして。小さい頃は、ゲームと虫が大好きな子どもでしたね。

──ゲームは何歳ぐらいからお好きだったんですか? 

ZUN氏:
 保育園の頃からです。1982~83年ぐらい。

──ということは、ファミコンが発売される直前の時期ですね。

ZUN氏:
 ファミコンよりも前に、“ゲーム&ウォッチ(電子ゲーム)【※】”で遊んでいました。それと、家が喫茶店だったので、アーケードのテーブル筐体があったんですよ。あとは、白馬村にはスキー場がたくさんあるので、そのレストハウスにもアーケードゲームがいっぱい置いてありましたし。

※ゲーム&ウォッチ(電子ゲーム)
 ファミコンが普及する以前の1970年代後半から80年代前半には、本体に内蔵された1種類のゲームをLEDや液晶画面で遊ぶ、「電子ゲーム」と呼ばれる携帯型のオモチャが流行していた。なかでも、任天堂が1980年から発売を開始した「ゲーム&ウォッチ」は、ポケットサイズの本体で熱中度の高いゲームを楽しめるため、大ヒットを記録。多数のバリエーションが発売された。
(画像はWikipediaより)

──当時遊んでいたゲームのなかで、心に残っているタイトルは? 

ZUN氏:
 ちょっと後になりますけど、アーケードの『ソンソン』【※1】が好きでした。『ソンソン』は曲が良かったので。

 ゲーム&ウォッチだと、滝に蛇が落ちてくるのを蹴ったりして、下で水浴びしている人を守るゲームがあったんです(※編注:エポック社の『キングコング ジャングル編』【※2】だと思われる)。電池のフタがすぐなくなっちゃうので、ボタン電池を指で押さえながら遊んでいました。指が離れると消えちゃうんですよ(笑)。

※1 『ソンソン』
 1984年にカプコンがアーケードで発表したシューティングゲーム。『西遊記』の世界がモチーフとなっており、孫悟空の孫のソンソン(プレイヤー1)とブタのトントン(プレイヤー2)が、次々と出現する敵を倒しながらテンジクを目指して進んでいく。(画像はCAPCOMより)
※2 『キングコング ジャングル編』
1982年にエポック社から発売されたLCD(液晶)ゲーム。キングコングを操作して、ジャングルの滝で水浴びする女性を、ヘビやプテラノドン、流木の危険から守る。ちなみに姉妹ゲームとして『キングコング ニューヨーク編』も存在する。(画像は駿河屋より)

──そんなふうにゲームを遊ぶ一方で、虫のほうは山の中に入って捕まえたりしていたのですか? 

ZUN氏:
 田舎なので山に入らなくても、すぐそのへんにいましたね(笑)。

──ゲームと虫以外に、お好きだったものはありますか? アニメとか、マンガとか。

ZUN氏:
 テレビもあんまり見なかったし、マンガもそんなに読んでいたわけでもないし。家が喫茶店だったから、マンガはいっぱいあったんですけどね。スポーツもあんまり好きじゃなくて、とにかくゲームをずっと遊んでいました。

──中学生になると、自意識が目覚めてくると思いますが、その頃に好きになったものは? 

ZUN氏:
 中学の頃は、むしろゲームの全盛期ですね(笑)。いちばんゲームが好きだった頃じゃないかなぁ。スーパーファミコンが出たのが中学生の時だったので、友達と一緒にすごく盛り上がっていました。

──放課後にみんなで集まってワイワイ遊んだりとか? 

ZUN氏:
 そういうのもやりましたし、『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』をみんなで貸し借りして、順番にクリアしたり。この時期はRPGをすごく遊んでいた気がしますね。『ファイナルファンタジーIV』【※】とか。

 

※『ファイナルファンタジーIV』
1991年にスクウェア(当時)から発売されたスーパーファミコン用ソフト。スーファミで発売された初の『FF』シリーズである。戦闘がリアルタイムで進行する“アクティブタイムバトルシステム”が、本作で初めて採用された。(画像はSQUARE ENIXより)

──シューティングはどうでした? 

ZUN氏:
 その頃は『グラディウスIII』【※】をやっていました。アーケードだと難しすぎたんだけど、スーファミの『グラディウスIII』は難易度がちょうどよくて。

 シューティングは小学生の頃からすごく好きでした。アーケードでもファミコンでも、とにかく難しかったですけど。たまに大学生ぐらいの人が、ゲーセンで自分よりも先に進んでいると、「あっ、先まで行ってる!」と、憧れの目で見ていました。

※『グラディウスIII』
1989年にコナミ(当時)がアーケードで発表したシューティングゲームで、正式タイトルは『グラディウスIII 伝説から神話へ』。『グラディウス』シリーズのなかでも特に難易度の高い作品として知られる。1990年にはスーパーファミコンで、内容をアレンジした移植版が発売されている。(画像はKONAMIより)

コラム1 民俗学への興味

受験を気にせず格闘ゲームで対戦

──次は高校時代ですが。

ZUN氏:
 高校になると、今度は対戦格闘ゲームの全盛期がやってきてね(笑)。

──本当にゲーム漬けの少年時代じゃないですか! 

ZUN氏:
 高校3年間は格ゲーをすごく遊びましたね。アーケードでもやったし、スーファミの『ストリートファイターII』も出来が良かったので、家でガンガンやってました。なにしろNEO・GEO【※】も買いましたから。

※NEO・GEO 1990年にSNKが発表したアーケード用のゲームシステム。『餓狼伝説』『ザ・キング・オブ・ファイターズ』といった対戦格闘ゲームのヒット作が多数リリースされた。また、アーケードそのままの内容を遊べる家庭用ゲーム機も1991年より発売されて、ROMカセットは約3万円と高額だったが、格闘ゲームファンに高い人気を集めた。(画像はWikipediaより)

──NEO・GEOの本体を買うというのは、さすがにガチの格ゲーファンですね。でも高校だと、さすがに進学も気になる時期ですよね? 

ZUN氏:
 高校は一応、地元の進学校だったんですけど、受験とかは考えたことがなくて、まったく勉強していませんでした。夏休みにみんな進学先を決めて勉強しているなかで、自分だけはずっとゲーセンで遊んでいて。

 それで結局、大学は指定校推薦で入りました。東京電機大学です。

コラム2 ゲーセン通いの日々

大学でゲーム作りを開始

──東京電機大学では、パソコンでゲームを制作するサークルに入られたそうですが。

ZUN氏:
 ゲームを作るということを、そんなに意識していたわけではないんです。将来的にゲームを作れたらいいなぁ、ぐらいに思っていたところに、大学にゲームを作るサークルがあったので、じゃあ入ってみようかなと。

 それで入ってみたら、サークルの人たちはみんな、パソコンを持っていて。それであわてて自分も、PC-9821【※】を買ったんです。

※PC-9821「PC-9821」は、1992年から発売されたNECのパソコン「PC-9801」の上位互換シリーズ。1982年から発売されたPC-9800シリーズは、日本国内でビジネス用・ゲーム用ともに圧倒的シェアを獲得した。しかし、海外でIBM PC/AT互換機(DOS/V)の普及が進んだことから、次のWindows時代の到来を見据えて、PC-9800シリーズにもPC/ATと同様の画面モード(VGA)を搭載したモデルとして、PC-9821シリーズが発売された。(画像はWikipediaより)

 

──では、パソコンに触れたのはその時からですか? 

ZUN氏:
 それが初めてですね。

──プログラムの仕方は、先輩から教えてもらったのですか? 

ZUN氏:
 いえ、ぜんぜん(笑)。まったくの独学です。

 とりあえず本屋さんでプログラム入門の本を買おうとしたんですけど、ゲームを作れるプログラムの解説本って、じつはそんなに種類がないんです。ゲームを作るならC言語【※1】がいいと聞いて、Cの入門書を買ってきたんですけど、そこに書いてあることがまずわからない。だってパソコンの使い方も知らないんだから(笑)。

 それでMS-DOS【※2】を必死にいじってみて、パソコンの基礎を全部自分で調べて。とにかくC言語をいじれるようになるまでが、いちばん時間がかかりましたね。

※1 C言語
コンピュータを動作させるためのプログラムを記述する、「プログラミング言語」と呼ばれるものの1つ。汎用性が高く、スーパーコンピュータから家電などに組み込むマイコンチップまで、Cと同系統のプログラミング言語が幅広く利用されている。また、高速でコンパクトなプログラムが実現可能なため、ゲームの開発にも向いている。

※2 MS-DOS
1981年にマイクロソフトが開発した、コンピュータを制御するOS(オペレーティングソフトウェア)。当初はIBM PC互換機用に開発されたが、NECのPC-9800シリーズをはじめとする多数のパソコンに供給されて、幅広く普及した。

──そんなふうにパソコン自体を独学で勉強されたゲームクリエイターは、ZUNさんよりも少し前の世代の方たちですよね。それこそ堀井雄二【※】さんだとか。

※堀井雄二
 1954年、兵庫県生まれ。フリーライターとして『月刊OUT』や『週刊少年ジャンプ』の記事を執筆するかたわら、独学でパソコンゲームの制作を開始。『ポートピア殺人事件』『ドラゴンクエスト』シリーズなどの名作ゲームを生み出して、日本を代表するゲームクリエイターの1人となる。

ZUN氏:
 インターネットもまだ家庭にまでは来ていなかったですし、1人で東京に出てきたばかりだから、友達もいなかったですし。誰に聞いていいかもわからなくて。

 でも、そうやって独学で学んでいくのは楽しかったですよ。自分が何かやるとすぐに新しいことが起こるので、すごくいじり甲斐があって。「音が出た!」「絵が出たぞ!」とやっているうちに、どんどん楽しくなってくるんです。そういうところが最初から用意されていると、たぶんそこに感動はないんでしょうけど、全部独学だったから、単純に感動できるんですよ。

──それが半ばゲームみたいな感覚というか。

ZUN氏:
 作ること自体がゲームみたいなものでしたね。パソコンを触り始めたのが、大学1年のゴールデンウィークで、連休の間にパソコンをガーッといじっていたら、連休の終わり頃にはけっこうゲームっぽいものができてきて。

──ということは、2週間ぐらいですか? 

ZUN氏:
 そうですね。かなり雑だけど、無理やり動くようなものは、その間に作れるようになりました。

──では、そのゴールデンウィークの頃に作ったものが、ZUNさんがいちばん最初に作ったゲームになるわけですか? 

ZUN氏:
 習作というようなものはその時ですね。いちばん最初だったかどうかは自信がないんですけど、『ぷよぷよ』を作ったんです。

──もちろん個人の習作の範囲内ですから、ゲームのルール自体も実際に遊んで理解したものですよね? 

ZUN氏:
 目コピーですね。当時はけっこう『ぷよぷよ』を遊んでいたので、挙動もできるだけ同じになるように作ってみて。もちろん見た目とかは違いますけど、同じように積めば同じように連鎖が起こって、対戦ができるぐらいまでは作りました。

 あっ、そうだ! プログラミングじゃなくてゲームを作るということだと、中学・高校時代に『デザエモン』【※】というソフトでシューティングゲームを作っていますね。

 

※『デザエモン』
1991年よりアテナから発売された、シューティングゲームを自作できるコンストラクションソフトウェアのシリーズ。ZUN氏が使用していたのは、1994年に発売されたスーパーファミコン版と思われる。自機や敵機、爆発パターンなどのエディットが可能なほか、BGMを作曲してループ再生することもできる。(画像は『デザエモン プラス』。Playstation Storeより)

──なるほど、プログラミングを覚えたのは大学に入ってからだけど、シューティングゲームを作ること自体は、すでに経験済みだったんですね。

ZUN氏:
 そういう意味では、ゲームを作ること自体に対する抵抗感は少なかったです。こういうふうに絵と音楽を組み合わせて構成すればいいんだな、というのは、『デザエモン』で作った時に分かっていたので。それをパソコンで形にするためのプログラムを覚えたのが、大学生の時ですね。そのプログラムが大変だったんですけど。

(第2回へつづく)

 

聞き手/斉藤大地

文/伊藤誠之介

カメラマン/福岡諒祠(GEKKO)

あれ?大学入るまでゲーム以外のことほとんどしてないのでは?東方Project作者ZUNさんの半生を聞く(聞き手のひろゆきさんは2時間遅刻しました) おわり

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