東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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コラム
2023/03/10

慧音・輝夜・菫子とのカップリングを通して見る、蓬莱人・藤原妹紅の実存。「蓬莱人の条件」

第12回東方発表会より、発表で使用されたスライドを掲載

 東方の二次創作は同人誌や音楽アレンジだけではありません。原作のキャラクターや設定を元に「考察」を深める、という楽しみ方があります。原作だけではなく、二次創作や東方にまつわるさまざまな情報を元に、新たな観点や解釈を導き出したりすることもあります。

「東方発表会」は、東方に関する考察発表、関連する巡礼先の紹介、おすすめ同人作品の紹介、好きなキャラの推薦・詳説、自分自身の東方二次に纏わる創作論まで……東方にまつわる内容であればなんでも発表OKの、東方プレゼンイベントです。

第12回東方発表会開催概要 ー https://twipla.jp/events/526502

 2023年1月7日開催の「第12回東方発表会」で公開されたスライドを、発表者のご許可をいただいて掲載いたします。

※掲載に際し、発表時の内容から編集や情報更新が入っております。

 

蓬莱人の条件

 はじめまして。ヰ/高村蓮生と申します。

 この度、あおこめ様が主催された第12回東方発表会において、藤原妹紅について、三名のキャラクターとの関係を通して解釈する、という内容の発表をさせて頂きました。

 そのとき使用したスライドに、コメンタリー的な文章を付けて掲載して頂けるということで、この場をお借りして感謝申し上げます。

 今回は、ニコニコ動画の文化であるカップリングタグになぞらえて、話を勧めていこうと思います。

 東方を知ったのが2004年ですので、ネタが古いですがご容赦ください。

 藤原妹紅といえば、様々な掲示板(主にニュー速VIPやしたらばの幻想板)に「もこたんインしたお」のAAが貼られていたものでした。東方を知らない人間にとっては唐突にインしてくるキャラという印象だったでしょう。元ネタは「ぽこたんインしたお」です。

 東方永夜抄EXボスとして登場した藤原妹紅ですが、個人的にメジャーなカップリングとしては上白沢慧音との「もこけね」、蓬莱山輝夜との「もこてる」、そして最近(9年前)東方深秘録で登場した宇佐見菫子との「もこすみ」があると思っています。

 東方でのカップリング表記は語感が優先されており、名前の前後で受け攻めが固定される傾向は薄いと思っていますので、リバとかよくわからないんですけど。不可なものもありますよね。

 

上白沢慧音と藤原妹紅

『東方永夜抄』ストーリーにおいて、上白沢慧音は「人里に住む人間」を守っています。

 幻想郷において、人間が夜中に人里の外で妖怪に襲われても仕方ない、とされることが多いように思います。ですが、慧音は永夜抄のEX中ボスとして現れた際に「あの人間には指一本触れさせない!」と発言します。

 永夜抄EXは肝試しであり、それ故にEX中ボスとして出てくる慧音は「きも(だめし)けーね」と呼ばれるのですが、明らかに夜中、人里の外である迷いの竹林にいる存在である藤原妹紅を「守るべき人間」としてカテゴライズしています。

 明らかに慧音は妹紅を“特別扱い”しているわけですが、それはどのような理由によるものなのでしょうか。

 慧音は「知識と歴史の半獣」と呼ばれるわけですが、その歴史とは、具体的に言えば古事記・日本書紀に書かれているものになります。

 古事記の成立過程を見ると、天武天皇の発案によるものと言われています。つまり、そのあたりの時期に、歴史書を必要とするような事情があったと解釈できるでしょう。

 なぞるだけで新書一冊くらいかかりそうな内容ですが、ざっくり端折っていきます。

 皇極天皇の時代に乙巳の変が起こり、蘇我氏の頭領であった蘇我蝦夷・入鹿親子が破れ、大化の改新により政治体制が改められました。それにより皇極天皇が退位し孝徳天皇が即位しましたが、難波宮遷都は政治的失敗に終わり失意のうちに亡くなってしまいます。

 その後、皇極天皇が再び斉明天皇として即位するという政治的混乱と、その後の天皇不在期間を経て、天智天皇(中大兄皇子)が即位します。この時期は白村江の戦いにおける敗戦など、まだまだ政治的に不安定な時期でした。

 そして、天智天皇の崩御に伴う後継者争いとして、弘文天皇と大海人皇子(後の天武天皇)による壬申の乱が起こります。

 結果、壬申の乱の勝利者である天武天皇・持統天皇夫妻により『記紀』『万葉集』の編纂が始められ、孫にあたる文武天皇のころには『大宝律令』が成立し、元明天皇のころにまず『古事記』が、その少し後で『日本書紀』が成立しました。

 天智天皇(中大兄皇子)から見ると、天武天皇(大海人皇子)は弟、弘文天皇・持統天皇・元明天皇は子供にあたります。この辺の時代の天皇家は関係が非常に複雑で、視点を変えると家系図も変わります。

 天武天皇から見ると、持統天皇は先程の家系図では姪に当たるのですが、こちらでは妻になります。同様に、元明天皇は姪であり義娘となり、実にややこしい。

 ごちゃごちゃしているので、文武天皇から見て父系と母系に整理します。祖母に当たる持統天皇は、同時に祖父でもある天智天皇の娘なので叔母に当たるのですが、些細な問題です。

 ……ところでこの図なんですけど。

 なんと、偶然にも天孫降臨の系図とピッタリと重なるではありませんか。わざとですが。

 天孫降臨について、何故子供ではなくて孫なのかと疑問に思ったことはないでしょうか。その背後には、持統天皇と文武天皇の関係があったのかもしれません。

 天孫降臨における天照大神とは、壬申の乱の勝者である天武・持統夫妻の象徴であり、高木神(高皇産霊神)は大化の改新の立役者である天智天皇・中臣鎌足の象徴であると解釈できます。

「天孫降臨によって天照大神に命じられた瓊瓊杵命が豊葦原中国に君臨した」という神話は、持統天皇から孫の文武天皇に皇統が繋がる構図とパラレルであると言えるでしょう。祖母から孫に皇位が継承されることを正当化する物語ですね。このとき、天皇家の祖先神としての天照大神が誕生した、と言えるかもしれません。

 このように、天皇家が神としての血筋を手に入れた裏では、人としての血筋を作り上げた家がありました。藤原家です。

 藤原の姓を与えられた中臣鎌足と、その次男とされる藤原不比等です。

 御存知の通り、鎌足は天智天皇とともに政治を動かしてきました。藤原氏を継いだ不比等は持統天皇の頃に判事に任命されており、以降は大宝律令の成立に関わる、娘を天皇に嫁がせるなど、政治面での存在感を増していきます。

 では、藤原不比等について軽く見てみましょう。

 藤原鎌足の次男と言いましたが、実は天智天皇の子であるという説もあります。

 不比等の子供は記録にあるだけで四男五女。もこたんはここには入りません。

 壬申の乱の頃、中臣姓は弘文天皇の側だったので、以降は政界から一掃されていました。その状況から政治の中枢まで至ったのは、皇胤であったからだ――そんな話もあるようです。

 政治の藤原氏と、神祇の中臣氏。この区別を作り上げ、藤原姓は自らの直系にしか名乗らせたがらなかったそうです。血筋を強調したわけですね。

 神々と巫女が権威と権力を分担するように、天皇と大臣が権威と権力を分担するという構図は、藤原氏から始まったものではありません。聖徳太子の時代、天皇家と蘇我氏と物部氏という形でも現れていました。藤原氏は、明確に神と人という形に分けて政治システムを組み上げたと言えるかもしれません。

『記紀』・『万葉集』・『大宝律令』・「国号”日本”の宣言」などを天皇家の名の下に実現していったのは、白村江の戦いにおける敗戦を期にそれまでの混乱した国内情勢をまとめ上げ、一つの国家として歩んでいくための下地作りであったと解釈できます。

 そして、神は神であるだけでは存在として不十分であり、神が歩んだ歴史を語る人を必要とする……ということの証左ともいえます。神に限らず、歴史はそれを語り継ぐ人間を必要とするのです。

 上白沢慧音の守る人間とは、歴史を生み出し語り継ぐ存在のこと。そして、基本的には人里に定住する人々のことを言います。それ以外の存在、つまり異人たちにも歴史はあるでしょうが、それは編纂された「人の歴史」ではなく、どちらかと言えば「民俗学的な妖怪譚」であり、おそらく慧音が伝える性格のものではないでしょう。

 そんな中現れた藤原妹紅は、出自を辿ればこれ以上なく「人間」であり、藤原氏の語る歴史は日本を形作るもので、間違っても妖怪ではない、正しく慧音が守護する対象である、と言えるでしょう。妹紅が人間として振る舞う限りは。

 

蓬莱山輝夜と藤原妹紅

 蓬莱山輝夜がなぜ”ぐや”と呼ばれるかと言えば、「ほうらいさんかぐや」を「ほうらいさんorぐや」と曲解したからだとかなんとか。さておき、蓬莱山輝夜と言えば『竹取物語』のかぐや姫その人であり、有名なエピソードには五人の貴公子と五つの難題があります。

 五人の貴公子のうちの一人、車持皇子のモデルとなったと言われているのが藤原不比等であり、皇子ということは天皇の子なわけで、その子供である藤原妹紅は『竹取物語』の文脈においては皇孫となるわけです。ヒロイン度高いですね。

『竹取物語』がどういう話だったかと言えば……野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことにつかひけり、な竹取の翁が竹を伐ったら赤ん坊が出てきまして。すくすく育ってかぐや姫と名付けられたその子は、あまりの美しさに求婚してきた貴公子たちを袖にして、帝をも袖にして、帝に宛てた手紙と月の使者が持ってきた不死の薬とを残して月に帰っていきました。残された帝は不死の薬を富士山にロード・オブ・ザ・リングさせましたとさ。めでたしめでたし。という話でした。

 そして『儚月抄』では、妹紅がつきのいはかさを殺し薬を奪って飲み、蓬莱人になるわけです。

 キーアイテムである不死の薬について、作用機序とかそういう難しい話はおいておいて、どのようなものかを記述から考えてみましょう。

 ここで注目したいのは「魂が本体になる」という部分であり、同時に「生と死の重ね合わせ」という状態についてです。

 魂が本体であるならば、魂は物理的対象ではないので、蓬莱人は物理的対象ではないということになります。また、生と死の重ね合わせについても、生死についての物理的な関係ではなく、論理的な関係についての話だと解釈できます。論理的な重ね合わせ関係についてならば、線形論理の結合子がヒントになりそうですね。何を言っているんだ。

 論理的重ね合わせ状態とはつまり(生∧死)ということであり、通常そこからは生も死も両方出てきます。(コーラ∧お茶)の機械からはコーラもお茶も出てきます。あれコップどこから出てきたのという疑問がありますが、まさにそこが問題です。∧(and)について詳しく見てみると、実は⊗(tensor)と&(with)という区別があって、今回の重ね合わせは(生⊗死)、つまり両方いっぺんに出てきてもいい関係ではなく、(生&死)の方、つまりどちらか一方しか導き出せない関係であると解釈したほうが自然じゃないかな、という話です。グラスいっこ。

 いやそもそも、物理だの論理だの肉体だの魂だのと、一体何のことだという話になるわけですけれど。

 肉体と魂について比較的有名なのは、デカルトの心身二元論だと思います。延長を本性とする物体と思考を本性とする精神でできているという説ですね。

 延長とはつまり、空間上に座標で表すことができるということであり、実際に直交座標系はデカルト座標系とも呼ばれています。思考とは所謂デカルトのコギトのことであり、私の基盤は思考にあるということです。まあ、デカルト本人も、これあんまり筋が良くないなって思ってたみたいですが。

 歴史上、この心身二元論は多様な批判に晒され、何度も論破されてきました。代表的なものとしては「精神と物体の相互関係が説明できない」というものであり、仮に相互関係があるのなら、それは独立した二元論ではなく一元論に還元可能なのではないか、というものです。

 この先は立ち入ると泥沼なので興味のある方は各自でお願いします。

 決定的な議論がないなら、比較的どうにかなりそうなものを選ぶしかありません。今回はどれにしましょうか。

 選ばれたのは、ギリシャ時代にまで遡る議論でした。

 砂鉄に磁石を近づけると吸い寄せられます。それを見た人が「こいつ、動くぞ」と言ったかは知りませんが、あるものが(能動的に)動くのは、それが魂を備えているからだという発想があります。物が動くことを通して、原因としての魂を見出す、アニミズムですね。

『東方永夜抄』においては、蓬莱の玉の枝の「不変の永遠」と蓬莱の人の形の「変化の永遠」が対比されていました。多分。藤原妹紅が生まれてから死ぬまでは、頻繁にリザレクションを繰り返していることからも分かるように、普通の人間の一生よりもかなり短いです。生まれてから死ぬまで十数秒だったりもします。

 では、新たに生まれ死んでいく妹紅は本当に妹紅という名前なのでしょうか。もしかしたら藤原妹紅Aだったり藤原F妹紅だったり藤原妹紅とは違う名前の存在だったりしないのでしょうか。

 そのような疑問を解消させるために、名前を固定指示詞として扱うことにしましょう。“固定指示詞”とは、可能世界意味論において用いられる概念であり、目の前の世界とは異なる世界においても、常に特定の個人を指示し続けるという働きをします。例えば、「『東方紅魔郷』の頒布が無かった世界」では「『東方紅魔郷』の製作者」としての「ZUN氏」はいませんが、それでも「ZUN氏」という名前で対象を指示することができる、といった具合に。

 こうして、認知的に異なる対象も同じ名前で呼ぶことが可能である、ということになりました。つまり、さっき死んだもこたんと、今生まれたもこたんを、同じ藤原妹紅という名前で呼ぶことに、不都合はなくなったわけです。

 名前はそもそも実体について物理的に備わっているものではなく、特定の対象を見た側がそれと関連付けるものです。さらに言えば、指示というのもミスリードな表現であって、名前がそういう機能を備えているというよりは、人間が名前という概念をそのように機能させている……というだけの話だったりして。結局、固有名は指示説ではなく述語説で解釈するほうが自然ですよね、と思うのですがそれはそれ。

 では実際に、人がどのように名前を運用しているかと言えば、特定の対象(ex.実体:藤原妹紅)の振る舞いから得られた情報(ex.さっき死んだ)を、特定のフォルダ(ex.名前:藤原妹紅)に収納しているということになるでしょう。

 そうして得られた情報と名前を関連付けることで、名前の持つ意味がどんどん豊かになっていきます。このシステムを採用すると、噂で「妹紅が〇〇したらしい」という話を聞いた場合、素直にその情報をフォルダに加えるかは、噂を聞いた側の判断に委ねられます。名前は本人の持ち物ではなく、それを使う周囲の人間が個別に持っているものです。一人一人が異なる世界を描き出し、各々の世界で「藤原妹紅」という名前を通用させているわけですね。

 一般的には、名前(固有名)と実体(肉体)は一対一対応するように運用されますので、魂と肉体はゲームソフトとゲームハードの関係にあり、合わせてゲーム体験として他人に受け取られる、と言える、かもしれません。多分。本当に?

 ゲームソフトとゲームハードの例をもう少し見てみましょう、

 魂をソフト、肉体をハードと考えると、同じソフトはどのハードで起動しても同じゲームができるのですから、魂はどの肉体に宿っても同じ人間になるはずです。なりませんけど。

 これはあくまで例え話であり、普通の人間は魂と実体が一対一対応しているので、ソフトとハードの話で言うとデスサターン状態を脱せなくなります。人間の魂と実体は、ゲームソフトとゲームハードのように綺麗に切り離せるものではない、と言うべきかもしれません。

 では何故ゲームの話をしているかと言えば、人間がゲームとして、ハードとソフトの組み合わせとして出来上がっているという話ではなく、人間関係をゲーム体験として、実体の動きとその原因(意志)の組み合わせで動いているものとして理解している、という話をしたいからです。

 目の前にいるのがどのような人間であって、何を考え、どう振る舞ったか……という履歴を名前に蓄積するという、あくまで受け手の側からの話をしたいわけですね。魂が実在するかと言えば、直接観測できない以上は「分からない」と答えるしかないわけですが、直接観測できる“実体の動き”を通して、間接的に魂の軌跡を理解することはできるはずです。

 つまり、人間としての藤原妹紅が何を生み出したかを見ることで、藤原妹紅の魂について語ることができるようになる、と言えるでしょう。

 藤原妹紅という肉体だけを見ていては、彼女の魂について見落としてしまう部分が出てきます。蓬莱人の本体は魂であり、肉体が生と死を繰り返すループこそがその本質と言えるでしょう。

 この軌跡こそが、蓬莱人としての藤原妹紅といえます。そして、実体を備えた「人間としての藤原妹紅」は、切り口の一つに過ぎないのです。

 羊羹の切り口を集めても、もとの羊羹が出来上がることはないように、実体をいくら集めても魂は出来上がりません。実体の動き全体を見渡すことで魂が見えてくるのですし、その動きを一つに集めてまとめるために、私たちは名前を使うのです。

「蓬莱人になる」ということは、魂が本体になる、つまり実体ではなく名前がその人になるということです。

 名前は目に見えないものですので、感性(五感)では捉えられないことになります。眼耳鼻舌身、色声香味触、その対象ではない。感じられないものは理性の領域で扱われます。意、法の部分ですね。過去や未来を直接感じることは出来ません。過去や未来は、理性を用いた推論によって意識に現れます。

 つまり、実機によってではなく、エミュレーター上に再現されたものとして処理されるわけですね。事ここに至って、名前は実体から解放され、対象の実在に関わらず、理性の中で機能する――言い換えれば、人の記憶の中で生き続けられるのです。

 蓬莱人とは、我々の目の前の世界から、物語世界のものとなった存在であり、あくまでも本体はその物語にあります。物語の世界から現実の世界に実体を伴って現れているだけなので、現実世界で生きていても死んでいてもその本質に影響はありません。

 それこそまさに、老いる(生きる)ことも死ぬこともない程度の能力と呼べるでしょう。

宇佐見菫子と藤原妹紅

 宇佐見菫子は、初代秘封倶楽部会長であり、夢の中で幻想郷を訪れることの出来る少女です。秘封倶楽部とは菫子が作ったサークルであり、涼宮ハルヒのSOS団のように不思議な他人を集めるのではなく、つまらない他人を遠ざけるためのものです。

 そんな菫子が、オカルトボールを使って起こした事件において現れたのが藤原妹紅であり、菫子にとっての他人として交流していくことになります。どれくらい他人かと言えば、初対決時にお互い名前を知らず、消えていく妹紅に対して「名前が判らない人」と呼ぶくらい。君の名は。

『東方深秘録』をもこすみ的視点から切り取ると、衝撃の出会いと感動(?)の別れを経験した菫子が実際に幻想郷に行ってみると、という感じになります。ガール・ミーツ・ガールですね。幻想郷はガールばっかりですが。

 感性・悟性・理性表象について、ここではカントの用法で使います。表象は世界の像だと思ってください。感性表象は五感で感じられる世界、理性表象はそれ以外の世界、悟性は世界についての知識だと思ってもらえると話が早いです。

 我々にとって世界とは、その多くが直接感じられないものです。我々の世界の総体は、現在よりも過去や未来のほうが、多くを占めているのではないでしょうか。過去の積み重ねや未来への期待があることで、安定した現在を生きているはずです。

 私たちは過去や未来を扱うために、情報(知識)の容れ物としての名前を必要とします。いつまでも「名前が判らない人」では困るのですね。

 めでたく名前「藤原妹紅」を手に入れると、藤原妹紅について色々な人と語ることができます。竹林にいた、また燃えてた、輝夜と一緒にいた、寺子屋にいた……などなど。そのように、人々の理性表象に現れる、つまり直接目撃されるのではなく間接的に世界に現れることで、社会的に生きている状態になるわけですね。

 サンジェルマン伯爵なんかは、割とこんな感じで名前が生き続けて、過去に行ったり未来に行ったりしている状態だと思われます。

 蓬莱人は、魂が主体になるだけでなく、周囲によって認識され、理性においてエミュレートされることで世界に存在するようになります。周囲から認識されるためには、実体を備える――つまり、人間が感じられる状態になければいけないわけですね。プログラムとしての蓬莱人「藤原妹紅」は周囲の人間から他者「藤原妹紅」として扱われる必要があります。

 ところで、蓬莱人が実体を持つ上で二つの制約があるように思います。

 一つは、蓬莱の輪廻の図で見たように、世界に実体として現れる肉体は一つだけということです。同時に二体も三体も藤原妹紅が現れることはありません。世界に藤原妹紅はただ一人だけであることが保証されています。

 もう一つは、肉体が死んだとしても魂は滅びないということです。死を迎えたとしても魂の不滅という矯正力により新たな肉体を世界に出現させることになります。

 つまり、幻想郷では同時に複数箇所にもこたんが現れることはなく、常に周囲の人の心のなかにはただ一人のもこたんが存在しているということになります。ぼくらの倶楽部のリーダーみたいですね。幻想郷のマスコットキャラでしょうか。

 一般に私たちは、現実世界を我々の五感で捉えています。というより、我々の感性を通して現れた世界を現実世界と呼んでいると言うべきでしょう。

 すると夢の世界は、現実世界と同じく(夢を見る)感性を通して現れた世界、と言えるかもしれません。現実世界と夢の世界とは、たまたま私たちが使っている名前が違うだけでしかない可能性があります。夢か現か。

 夢か現かといえば、荘子の「胡蝶の夢」は物化の話です。物化とは、世界は「物」が「化けて」いる姿だということです。「物」の現れである荘子や胡蝶、その他諸々という具合にいくら実体をかき集めたところで、「物」の正体はわからないでしょう。

 現実と幻想郷とをどれだけ細かく区別したところで、世界について何かが分かるかと言えば、非常に怪しいかもしれません。世界について詳しくなるということは、断片をどれだけ蒐集したかということではないのですから。

 宇佐見菫子にとっては現実世界も幻想郷も本質的な差異などなく、どちらで出会ったにせよ他者は他者であり、たまさかに幻想郷において現実よりもよりリアルな他者との触れ合いを経験している、と言えるでしょう。

結局、蓬莱人とは?

 ここまで三名のキャラクターを通して、藤原妹紅について見てきました。

 慧音とは「藤原妹紅」という名前を持つ人間として。

 輝夜とは『竹取物語』とそれに続く『東方永夜抄』『東方儚月抄』の登場人物として。

 菫子とは「藤原妹紅」という名前を持つ以前の人間として。

 実体(肉体)と名前(魂)は、相互に影響し合いながら変化していきます。実体が生み出した意味を名前が回収し、回収された名前に沿って実体が振る舞うことでさらなる文脈と意味を生み出すという具合に。そうやって名前と一生付き合っていくわけです。人間は成長すればするほど自分の名前に似てくる、という話もありますし。

 では、蓬莱人は人間とどう違うのでしょう。

 蓬莱人も、実体を持つ以上は、名前との相互作用があります。つまり、人間らしく生きることが可能だと言えます。あくまでも、人間である部分だけは。

 繰り返しになりますが、蓬莱人は魂が本体であり、実体は仮初のものに過ぎません。藤原妹紅という蓬莱人の根本には、『東方永夜抄』『東方儚月抄』の登場人物という本質が、動かし難く横たわっています。

 何度死に生まれ変わったとしても、寧ろ死んで生まれ変わるたび常に新たに、自らの本質を、つまり背負っている物語を直視せざるを得なくなります。

 藤原妹紅という存在には、常に『竹取物語』が――つまり「なよ竹のかぐや姫」である蓬莱山輝夜の存在が前提とされています。これは、藤原妹紅が蓬莱人である以上覆し難い事実であり、つまりリバ不可です。あらゆるもこたん関連のカップリングは、原理的に全てがもこてる前提で成立していると言えます。言えます? まあさておき。

 よく言われることですが、人間は実存が本質に先立ちます。人間には予め定められている意味というものは無く、寧ろ在り方の変化がその本質と言えるでしょう。対して、蓬莱人はその本質が予め定められており、基本的に不変です。不変と変化という対立がある以上、やはり蓬莱人と人間、妹紅と慧音や菫子との間には埋められない溝があります。

 とか言いながら、ワレモコウの花言葉って「変化」なんですよね、という豆知識で今回の長広舌をおしまいにしたいと思います。

 お付き合い頂き有難う御座いました。

      ,-へ,  , ヘ
    /,ヽ_,_i=/__,」
    / ,’   `ー ヽ パカ
   / ∩〈」iノハル.!〉   あ、もこたんインしたお!
   / .|i L>゚ ∀゚ノiゝ_
  //i>i ir^i `T´i’i| /
  ” ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∪

 

 

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https://twitter.com/gensou_forum

慧音・輝夜・菫子とのカップリングを通して見る、蓬莱人・藤原妹紅の実存。「蓬莱人の条件」 おわり

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