東方我楽多叢誌(とうほうがらくたそうし)は、世界有数の「同人」たちがあふれる東方Projectについて発信するメディアです。原作者であるZUNさんをはじめとした、作家たち、作品たち、そしてそれらをとりまく文化の姿そのものを取り上げ、世界に向けて誇らしく発信することで、東方Projectのみならず「同人文化」そのものをさらに刺激する媒体を目指し、創刊いたします。

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コラム
2020/02/13

「女神転生」から、紺珠伝・天空璋・鬼形獣の3作品を紐解く 「東方Projectにおける魂の形」

東方発表会より、発表で使用されたスライドを掲載

 東方の二次創作は同人誌や音楽アレンジだけではありません。
 原作のキャラクターや設定を元に、「考察」を深める、という楽しみ方もあります。原作だけではなく、二次創作や東方に纏わる様々な情報を元に、新たな観点や解釈を導き出したりすることもあります。

 「東方発表会」は、東方に関する考察発表、関連する巡礼先の紹介、おすすめ同人作品の紹介、好きなキャラの推薦・詳説、自分自身の東方二次に纏わる創作論まで………東方にまつわる内容であれば、なんでも発表OKの、東方プレゼンイベントです。

 東方発表会開催概要 ー https://twipla.jp/events/402279

 

 先日行われた「第7回東方発表会」で発表された内容の幾つかを、登壇者の方に許可を取りまして、使用されたスライドを不定期掲載していきます。

 

主催者、あおこめさんよりコメント

 「このたびは、このような形で発表を取り上げて頂き、非常に光栄です。2020年1月に実施された第7回東方発表会では、合計11の発表があり、非常に盛り上がりました。掲載される発表はその一部ですが、それを見て会の空気を感じていただければ幸いです。
 東方発表会は毎年1月・7月の開催を予定しています。次回も7月開催で調整中ですので、ご興味ございましたらぜひご参加をご検討ください。」

  あおこめさんのツイッター @blue_comment
  発表会告知用アカウント @cyan_comment

  第7回東方発表会のツイートまとめ ー Togatter 
   https://togetter.com/li/1460405

 

 今回掲載するのは、ヰ/高村蓮生さんの「東方Projectにおける魂の形」です。
 東方我楽多叢誌へのスライド掲載に合わせて、発表時の内容に合わせたスライドコメンタリーを、特別につけて頂いております
 スライド・コメンタリーともに濃い内容になっておりますので、ぜひご覧ください。

東方Projectにおける魂の形

 

※発表内容は、登壇者自身の調査による研究内容であり、個人の見解になります。さまざま存在する東方の解釈の一つとしてお楽しみください。

 

 

 はじめまして。ヰ/高村蓮生と申します。
 この度、あおこめ様が主催された第七回東方発表会において、東方projectの最近三作である紺珠伝・天空璋・鬼形獣を、女神転生シリーズを通して解釈する、という内容の発表をさせて頂きました。
 そのとき使用したスライドにコメンタリー的な文章を付けて掲載して頂けるということで、この場をお借りして感謝申し上げます。

 

 昔、アリスとパチュリーが自律人形を作るという内容のSSを書いたことがあります。その当時からアリスが好きなのですが、そのへんはやっぱり女神転生のアリスが関係しているのかな、と思ったりします。あなたのアリスはどこから? 私は御影遺跡から。
 女神転生と東方との関係は根が深いのだと思います。

 

 まずは前提知識として、女神転生について一通り確認しておきましょう。
 女神転生とは、小説を原作とする、一連のメディアミックス作品のことです。

 FC用RPGの女神転生は、開発はATLUS、販売はnamcoという形態で流通しました。その後、販売もATLUSとなり、真・女神転生という形で新たなシリーズとして展開していきます。
 派生作品が多い作品ですが、今回の発表においては真・女神転生、真・女神転生if…、女神異聞録ペルソナ、真・女神転生Ⅲ-NOCTURNE マニアクスあたりが主に扱われています。
 シリーズに共通するギミックとして、悪魔召喚プログラム、又はそれに類するものがあります。敵として現れる悪魔を仲間(仲魔)にするプログラムで、敵を味方にするというシステムを持つゲームとしては最初期のものと言われています。
 物語的には、異界と現実世界を繋ぐゲートを開いてしまった科学者が、現れた悪魔に対抗するために悪魔召喚プログラムを作り、パソコン通信を通して世界中に広め、偶然受け取った主人公がそれを使って生き延びる、というストーリーです。
 ただの人間が悪魔に対抗できる理由として、if…では悪魔がガーディアンとして主人公たちに憑いていますし、ペルソナシリーズでは、世界各地の神性をペルソナという形で降魔できるというようにシステムが変化しますが、基本的に主人公たちは何者かに力を与えられたただの人間です。

 

 タイトルと内容は関係ありません。
 主人公に対する敵(悪魔)は何かというと、所謂悪魔から神や天使、妖精まで様々です。
そんな悪魔たちは、他者(主人公たち)に対してとる手段と、その悪魔の望む社会によって分類することが出来ます。Dark悪魔は基本的に仲間(仲魔)にすることができない、Chaos悪魔は会話が成立しづらい、等々。

 

 タイトルと内容は(ry
 この図だけ見ても今ひとつよくわからないかと思いますが、今回話題のメインとなる鬼女・秘神・邪神がChaos, Neutral, Lawに分かれているのがご理解頂けるかと思います。

 

 タイ(ry
 みんな「切なさ乱れ打ち」って読むやつですが、正しくは「刹那五月雨撃ち」です。アフガン航空相撲みたいなものですね。
 社会という視点で見ると、最近の三作の舞台は、月がLaw、幻想郷がNeutral、地獄がChaosに対応していると解釈できます。
 以上の道具立てを手にして、いよいよ三作品の解釈に向かうことにしましょう。

 

紺珠伝における魂の形

 

 

 純狐の復讐という側面を考えると、エリーニュスでしょう。

 エリーニュスといえばヘカテーの部下ですが、純狐とヘカーティアがそういう関係であるかといえば……? とはいえ、フューリーズといえばエリーニュスであることは疑いようが無いでしょうし、全く無関係ということもないでしょう。三相女神ですし。
 三相女神といえば、運命の三女神ラケシス・アトロポス・クローソーとか、何故か三人一組が多いですね。三相でいうなら、ペルソナにはトリグラフなんかもいました。

 

 ボルボ。ヘカテーの別名ですね。

 なぜ、元ネタとしてヘカーテではなくこちらの姿を採用したかといえば、女神転生において表現さている姿が、ヘカーティアっぽかったからです。
 ヘカテーは、天上に於いてはセレーネー、地上においてはアルテミス、冥界においてはペルセポネーの姿をとる、と言われています。垂迹ですかね。

 

 こっちは魔女たちの女王としてのヘカテーです。
 オカルト関係でよく目にするヘカテーといえば、こちらではないかと思います。産褥など、魔女の領域を司る女神としての、命を与え、奪う神性としての側面ですね。そこから種々の能力を持つ女神へと祭り上げられたのだと思われます。多分?
 今回は三体いてほしいので、こちらの解釈はあくまでおまけです。

 

 純狐たちに包囲された月の民は、月の都を幻想郷に遷都しようとするのですが――
 というわけで、これは月(Law)に敵対する純狐とヘカーティアたち(Chaos)、と解釈することが出来ます。

 月の住人であると思われる天津神は、女神転生ではLight-Law属性です。Law的な世界観においては、社会は画一的、反復的、合理的であることが望まれます。身分制があり、役割があり、役職において個人は交換可能、となる世界です。所謂理想国家、ユートピアですね。そんな社会に対し、自由を重んじるChaos勢力が反旗を翻すのも、むべなるかなといったところでしょう。
 ところで、紺珠伝における決定的なメガテン要素は、アポロ経絡だと思います。「けいろ」ではなく「けいらく」ですから。真・女神転生Ⅲに出て来る「アマラ経絡」のように、ある地点と他のある地点を結ぶ異世界です。渋谷と銀座ですと、銀座線ですね。

 

 純狐の能力といえば「純化する程度の能力」ですが、実際には何ができるのでしょうか。
 まず、純化された状態というのがどういうものかを確認しましょう。妖精に純狐の能力を使うと生命力の塊になり、被弾した自機キャラに能力を使うと死ぬ、と言われています。ところで、妖精とは、自然の持つ変化の力の具現化ですし、ギリシャ神話において人間とは、不死なる神、immortalな存在に対して、可死的なもの、mortalな存在として扱われています。
 妖精の本質は物事の原動力ですし、人間の本質は死ぬこと、と言えるでしょう。

 

 プシュケーといえば、普通は魂と訳されることが多い言葉です。この場合の魂とは息であり、呼吸です。日本語で「いのち」が「息の内」を元とするとされるように、古典ギリシア語においてプシュケーとは、精神というよりも呼吸・物事を動かすエネルギー、原動力の側面が強いと言えるでしょう。

 プシュケーは動因、つまりエネルギーのようなものですが、英語でenergyはエナジーと読みます。じゃあエネルギーって何語なんだといえば、多分ドイツ語。エネルギーの語源は、古典ギリシャ語のエネルゲイアです。enとergonで出来ている言葉で、ergonまたはuergonは英語のworkと語源を同じくします。ところで、エネルゲイアといえば、高校倫理の時間に聞いたことがあるかもしれませんが、デュナミスとエネルゲイア、可能態と現実態という考え方がアリストテレスの著作にあります。デュナミスは英語のダイナミックの語源ですね。可能性を持った状態(デュナミス)から、可能性が実現された状態(エネルゲイア)に変化するという思考で、なにかが実現されたなら、そこには可能性があったに違いないという具合に読めます。

 質料、つまり物体が可能態であり、出来上がった形に形相が宿る、という図式です。形相が予め用意されており、それに質料を当てはめて実体が出来上がる、というのではなく、まず目の前に実体があり、それは形相を備えた質料だと考えられる、という順序です。

 

 では魂を、イデア論と質料・形相論で考えてみると、どうなるでしょうか。

 イデア論において、魂は肉体を離れて存在することが出来ます。人の魂は不滅であり、生まれる前にはイデア界にいました。肉体とは乗り物であり、魂は乗り手です。乗り物なしでも、乗り手は存在することができる、とする立場です。状況Aに、変化という概念を適用すると、状況Bになる、と言えるかもしれません。
 対して、質料・形相論においては、魂は肉体を離れて存在することが出来ません。魂とは特定の質料の形なのですから、個々の現われについて観測されるものであり、実体を介さずに魂を見ることは出来ない、と言えます。状況Aと状況Bとの間に起きた変化を理解することは出来ても、概念としての変化そのものはない、と言えるかもしれません。
質料・形相論は、まず目の前の現実があるという立場であり、主観というよりは、客体に重きを置いています。イデア論のように、人間の認識以前に一般概念が実在し、それが目の前の現実に適用できるとする立場ではありません。

 主観よりも客体に重きを置く、客体を重視する立場としては、シュルレアリスムがありますね。いきなり古代ギリシャから現代辺りまで飛んできてしまいました。
 シュルレアリスムとは、対象から意味を剥奪する態度と言えるでしょう。自動筆記や転置といった手法を用いて、対象から文脈や意義を剥ぎ取り、新たな文脈に埋め込む手法です。具体的には、マルセル・デュシャンの『泉』が挙げられるでしょうか。男性用小便器にR.Muttというサインを入れて美術館においた時、その男性用小便器は製造された目的や役割を剥奪され、単なる物体に戻り、新たに美術品という文脈の中に置かれたわけです。美術品として作り出されたか否かではなく、美術品として評価されているかどうかという点で、イデアとしての概念「美術品」ではなく、質料に備わった概念「美術品」として扱われている、と言えるかもしれません。
 つまり、シュルレアリスムのやっていること、少なくともその途中までは、「ものを名付けられる前の姿に戻す」という純狐の能力と近いことをしていると言えるでしょう。

 

 月の都と言うのは秩序を重んじる世界であり、その社会における魂の在り方とは、イデア論と親和性の高いものです。人間の存在以前に、予め用意された理想的な魂というものが存在します。対して、純狐によって純化された魂とは、原動力や生命直そのままに荒々しく活動的に月の都を侵略します。Law的な魂は、合理性や再現性が重要視される画一化された魂ですが、そういった価値観に反抗した、つまり既成概念に異議を唱えた純狐たちは、正しくロックンロールな振る舞いをしていると言えるでしょう。
 月のシステムから逃げ出した玉兎とか、純狐好きそうですね。

 

 

天空璋における魂の形

 

 多分チルノです。
 ジャックフロストの人懐っこくも属性ヒーホーな感じは、⑨な感じのチルノとよく似ている、かもしれません。
 ちなみにプリクラ的な何かではなく、ATLUSの「プリント倶楽部」のマスコットです。
ジャックフロストが頑張って強くなると色が黒くなってじゃあくフロストになるんですが、チルノが季節装備で強くなると黒くなって日焼けしたチルノになる、んですかね?

 

 天空璋の登場キャラについて軽く触れてみます。

 エタニティラルバはプシュケイでしょうか。人間から神になった、蝶の羽を持つ女神です。幼虫から蛹、成虫へと完全変態する蝶をモチーフとしているラルバは、変化の具現化である妖精の中でも特に妖精らしい存在として扱われているのかもしれません。
坂田ネムノは、鬼女イワテです。能『黒塚』とか歌舞伎『奥州安達原』に出てくる鬼婆ですね。鬼女という種族はNeutral-Chaosで、テングは妖魔Neutral -Lawです。種族的に仲が悪そうですね。
 高麗野あうんは狛犬ですが、獅子像ではない方の元々の姿は聖獣カイチだとされています。正義と公正の獣として、清の役人の服装にも意匠として取り入れられていたそうです。また、真・女神転生では主人公の飼い犬であるパスカルがケルベロスになるのでその関連と、ペルソナ3のコロマルのペルソナもケルベロスでしたね。
 矢田寺成美といえばうごくせきぞうですが、ゴーレムと考えてしまうと良くわかりません。天魔ヤマだとLight-Chaosなのですが……、という話をしたところ、質疑応答の場で魔神転生にクシティ・ガルバ、つまり地蔵菩薩が出てくるという情報を教えて頂きました。

 

 秘神の属性はLight-Neutralです。EX隠岐奈様のポーズがキンマモンっぽいと専らの噂ですね。キンマモンの他にはカーマやカンギテンといったセクシャルな神々がいます。

 さておき、ここで押さえておきたい妄言は一つ。悪魔召喚プログラムを作った(つまり、主人公を裏で支援してくれる)人物であるSTEVENは、車椅子にのっています。女神転生で車椅子といえばSTEVENかルイ・サイファーなのですが、どちらも物語にとって重要な位置にいるキャラクターです。つまり摩多羅隠岐奈が重要なキャラクターである証拠ですね。ですかね。

 

 天空璋における摩多羅隠岐奈の振る舞いは、基本的に「謎の人物」です。複数の目的を同時に設定することで行動の真意を読まれにくくし、個人としての像をぼやけさせています。存在することは分かるのに、細部を明らかにしようとすると途端にぼやけてしまいます。
 幻想郷はLawでもChaosでもなくNeutral勢力です。普通の人間はL-N-D軸に関してNeutralですが、L-N-C軸に関しても基本的にNeutralです。Lawは秩序を重視しすぎて一神教的になり、Chaos は自由を求めすぎて多神教的になるのに対して、Neutralはそのどちらにも寄らず人間としての選択を行います。人から神になることも妖怪になることも許さない幻想郷という在り方、でしょうか。
 Neutralと言ってもその全てが価値基準を同じくするとは限らず、他者との関わりを断って自らの殻に閉じこもることを選ぶこともあれば、進む道に立ちふさがるものを混沌・秩序問わずに打ち倒していくことを選ぶ場合もあります。Neutralが常にNeutralの味方であるとは限りません。

 

 摩多羅隠岐奈の能力とは背後に扉を作るものですが、なんでみんなの背後に作れるかといえば、恐らく胞衣の神だからで、胞衣とは人が生まれてくる時に一緒に生まれてくる人ではないもの、つまりへその緒や胎盤といったものです。人の一生に常に影としてついて回る神様、ということでしょう。
 影とは、人に張り付いて離れないものであり、我々は影を通して、実体を推測することさえします。そこから、影を通して実体を推測させる、影絵あそびのようなこともするわけです。隠岐奈は、人の背後の扉を通して生命力や精神力を操ることで、影絵あそびをしている、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 

 では試しに、影絵あそびをしてみましょう。

 稗田阿求という一人の少女がいます。彼女は稗田家の当主であり、またアガサクリスQという筆名で小説を書いているわけですが、同一の少女を指示する時に異なる名前が使われるのは何故でしょうか。
 SinnとBedeutungという道具立てを用いて考えてみましょう。

 

 「点O」という名前の指示対象は中心の赤い点ですが、それがどのように表されるかといえば、
 黒い線で描かれた正三角形の重心又は垂心、
 正三角形に内接する紫の線で描かれた円の中心、
 正三角形に外接する青い線で描かれた円の中心、というように様々な与えられ方があります。

 

 もし稗田阿求=アガサクリスQであるなら、「稗田阿求は女である」という文章と「アガサクリスQは女である」という文章は、同じ意味を持たなければおかしいはずです。なぜそこに違いが生まれるかといえば、語の与えられ方、認識価値が違うからだと言えるでしょう。
 影の形とは、情報の与えられ方です。実体がどのような姿であるかを、その実体が作り上げた影を通して推測する事になります。稗田阿求という名前と、アガサクリスQという名前の、作り出す魂の形は、異なっていると言っていいでしょう。明けの明星と金星は同じ天体を指示しますが、明けの明星が夕方見えることはありません。

 

 影の形が何かに見えるかもしれませんね(棒

 

 影の形が異なれば、それを作り出した物体もまた異なる、というのが常識的判断です。
 主人公を手助けする車椅子の人物というだけでは、STEVENを指示したいのか、摩多羅隠岐奈を指示したいのかわかりません。
そして我々は容易にそれらを混同します。慧音はワーハクタクで、ハクタクはバクで、バクはパンダなので、けーねはパンダです。嘘ですが。
 実体の影を変化させることを、ペルソナの付け替えのようなものだと理解していただいてもいいかもしれません。降魔しているペルソナのステータスが変われば、主人公たちのステータスも変わります。
 つまり、キャラクターの背後にある由来や伝承を操作することで、そのキャラクターの魂の形も変化する、と言っていいでしょう。

 

 摩多羅隠岐奈は、季節装備を与えたり奪ったりすることで、自機キャラを強化したり弱体化させたりします。それは、内部の勢力を均衡させ、幻想郷という環境の維持管理を行う、バランサーとしての性格が強い振る舞いであると解釈できます。
 ニュートラルルートには、「引き篭り」と「皆殺し」のふたつのルートがあると言いましたが、もう一つ、「先延ばし」という選択もあります。それは、見方によっては現状の保守管理ともいえるでしょう。決定的な変化を避け、中庸を目指すと解釈できるあたり、摩多羅隠岐奈の目的は、幻想郷を守ることなのだと思います。
 自機キャラたちがどのように振る舞おうとも、摩多羅隠岐奈の掌の上でしょう。

 

 

鬼形獣における魂の形

 

 磨弓ちゃん大天使。
 土偶に天使の要素があるのかと言われれば、無くもないとは言えるかも、程度でしょう。
造物主によって作られた、本人の自由意志を無視され、価値観を強制された姿です。土偶や天使に自由意志があるのかは定かではありません。多分無いです。
 このように、画一化されシステム化された在り方というのは、Law勢力の望む世界観、つまりユートピア的世界観が反映されている場合が多いですね。誰かがユートピアの実現を望んだのでしょう。

 

 今回の解釈においては、埴安神という神格よりも造物主としての側面を重視します。
 デミウルゴスが登場するのは、プラトンの『ティマイオス』においてですが、本来の意味は「職人・建築家」で、イデア界の模倣としてこの現実界を制作したと言われています。つまり、プラトン的創世神話なのですが、これは後にグノーシス主義と関係します。
 グノーシス主義においては、プレーローマと呼ばれる理想世界にアイオーンという神々がいて、そのうちの一柱であるソフィアによって創造された、ヤルダバオトという名のデミウルゴスによって、この世界が作られました。だからこの世は不完全で、人間はすぐに死んでしまうのだそうです。

 

 弱肉強食の世の中において、弱者たちが脅かされずに生きていくためには、秩序が必要です。 弱者たる人間霊たちが、ユートピア的世界を望み、埴安神袿姫を喚んだものの、彼女のもたらす秩序は、彼らの求めていたものとはちょっと違ったのかもしれません。
 ユートピア的世界観とは、神(=法)による支配と、住人たちの相互監視により成立する理想国家、つまり法のもとに共和的に成立する管理国家です。市民、幸福は義務です。過剰なユートピアは今で言うディストピアなのですが、混沌とした世の中においては、強烈な秩序こそが自分の身を守る最大の武器、となることも往々にしてあります。
 神も仏もないのならば、作ればいいのです。

 

 では皆さん、試しにちょっと絶望してみましょう。

 この世には夢も希望も無い。頑張れば報われるなんて、そんなことを保証してくれる神なんかいないんだ。
 そんな世界は耐えられない。この世は因果応報でなければならない。そのように世界は出来ているに違いないのだ。
 世界は何者かによって作られた。つまりこの世の道理を作った存在がいるに違いない。
この世界における正義とは、その存在、つまり神の価値観に違いない。
 我々の生きる意味はここに与えられた。神の正義に従うべきである。
 これこそが我々にとっての救いである。

 ……。
 嘘ですけど。

 兎にも角にも、人間は依存する価値観があった方が、生活しやすいですし、価値観を同じくする、つまり同じ神を信じている人同士でまとまったほうが、暮らしやすいでしょう。
 19世紀末に、ニーチェによって、そんな共同体的価値観は自明ではない、つまり神は死ぬ可能性がある、ということが言われたわけです。そんな絶対的価値観が否定された世界で、それでも何らかの価値観に縋らなければ、生きていくことの難しい存在もいます。人間霊とか。
 神が死んだ世界では、能動的ニヒリズムのように、絶対的な価値観はないのだから、自らを由として己の価値観を構築していく、という態度が望ましいのでしょう。自分を常に主体化し続ける、という態度です。しかし、すべての人が偉人の水準で生きることは出来ないのでしてー。宗教の暖かい腕の中に戻ることもまた人間らしさでしょうし。
 とかなんとか。

 

 偶像崇拝は、一神教において正しくない信仰の在り方とされます。それは、信仰の対象が、神ではなく偶像、ひいてはそれを作った人間に向くからです。思考の判断基準が、神から与えられた価値体系ではなく、人と作り上げる価値体系になってしまうということでしょう。

 では、その偶像が神の創造物だった場合、どうなるのでしょう。

 

 偶像を信仰する場合、我々はどのようにそれを行うのでしょうか。

 何かを信仰するとは恐らく、我々の思考の基準を、対象の価値観に寄せるということだと思います。つまり偶像は、意味や価値の体系を備えており、それを模倣することで、我々は偶像を崇拝することが出来ると言えるでしょう。偶像の持つ魂の形を受け入れる、ということです。
では、偶像に魂はあるのでしょうか。あったとして、どこにあるのでしょう。
 我々は魂を物理的に観測することは出来ませんので、物理学や科学一般によって魂を説明することは諦めましょう。魂という語の指示対象は、現状存在しません。仕方がないので、魂という語の与えられ方について、つまり魂という言葉の意義とは一体なにか、を問うことになるでしょう。問題は、言葉の意味ということになります。

 ところで、言葉の意味は科学で扱うことのできる対象ではありません。じゃあ、何が言葉の意味を扱うかといえば、人文学に当たるのが適当でしょう。その言葉がどのように使われてきたかという歴史、どのような価値観のもとに使われてきたかという倫理、どのような筋道に沿って使われているかという論理。それらは、人間の外部に既に出来上がっているものではなく、人間が自らの内部に常に作り上げていくものです。
 つまり、魂というものは、それを見出す私達の内部で扱われるのが適当であろう、と言えるでしょう。

 

 光源無しで影ができる、というのは不思議な事ですね。この世には不思議なことなど何も無いらしいですけど。
 魂と実体があるように見えたら、そこには光源、つまり観測する主体がいるのです。

 

 偶像とは、魂を備えた物体だと言えます。判断し、行動する基準となる価値観(例えば忠誠心)に従って行動しているように見える対象には、魂が宿っていると思えるでしょう。ただ動くのではなく、動きに一定の傾向を見出すことが出来る、ということです。
 そのような、所謂知性ある魂のことを、プシュケーに対してプネウマといいます。三位一体説における聖霊のことも、プネウマと言います。ラテン語でいえばanimaとspiritusですね。 animalとspiritualの違いといえば、なんとなく近いような気もします。spiritusを吹き込む(in)のでinspireというのですが、そのように魂を吹き込まれた偶像は、信仰の対象として十分な資格を持つことになるでしょう。
 偶像とはidolaであり、idolaとはidolum「偶像」の複数形です。我々はidolaによって正しい思考ができなくなっている、というのはフランシス・ベーコンが言ったことですね。ただ、お互いがお互いに正しい思考を目指す場合と、お互い同じ間違いをする場合とを比べると、後者の方が容易ですし、同じ信仰を持っていると言えるでしょう。
 偶像崇拝としては正しい姿ですが、一神教の信仰形態としては不適当かもしれませんね。いや、埴安神って多神教の神様なんですけれど。

 

 Chaosな魂で溢れている畜生界に、Law勢力の魂、つまり画一的で共和的な魂を作り出す神が顕現して、さらにDarkな、つまり独善的な判断をする傾向があったために、その影響は霊長園から畜生界に広がり、幻想郷にまで及びました。
 幻想郷は御存知の通りNeutral ですので、他勢力からの干渉は排除するわけで、結果として皆殺しルートになりました。

 

 

まとめ

 

 各六ボスの能力を魂との関わりについてまとめてみましょう。

 純狐の能力は、個人から人格を剥ぎ取る事ができる、と言えるかもしれません。人格という個人の積み重ねてきた意味を剥奪し、魂が備わる前の客体へと戻してしまえるのではないか、と解釈できます。『シュルレアリスムとは何か』という本がちくま学芸文庫から出ていますので、おすすめです。

 摩多羅隠岐奈の能力は、個人に由来や伝承を付け加える事ができる、と言えます。個人が持つエピソードを変形させ、情報を通して推測される個人の形を変形させることが出来る、ということでしょう。意味や意義、名前と情報の関わりについては、『言語哲学重要論文集』という本が好きですが、入り口としてはシリーズ・哲学のエッセンスの『クリプキ−ことばは意味をもてるか』が面白いと思います。

 埴安神袿姫の能力は、魂が宿っていると思わせる実体を作る事が出来る、と言えるでしょう。対象に魂が実際にあるかどうかではなく、我々がそこに魂を見出すことの出来る精度で対象が実在するか、という点において、物体に魂を吹き込むことが出来ると言えます。この点について気になった方は、チューリングテストや、その周辺について調べてみると面白いかと思います。SF小説ですが。『スティーヴ・フィーヴァー』というタイトルのアンソロジーが早川書房から出ていますのでおすすめです。

 魂とは一体なんなのかという問題について、私には結論を出す能力はありません。あるのは、範囲を東方Projectの直近三作品に限った上で、諸々の補助線を引くとこのように解釈できる、という程度の話をする能力です。見取り図のようなものだと思って下さい。

 魂とは実体ではなく、物が変化するという事象に、我々が見出す実体の影だといえるでしょう。動く実体に魂を見出し、魂の動きを観察することで、人が積み重ねてきた履歴を参照し、出来上がった影の動きを、個人の人格だと判断します。その履歴に含まれる情報を変更したり、参照する点を操作することで、その個人の魂の形を変更し、同時に影の本体である個人にも影響を与えることが出来るようです。魂は我々がそこに見出すものですので、実際にあるかどうかはともかくとして、そのように振る舞う実体を作り挙げてしまえるならば、その対象は魂を持つ、と言っても過言ではありません。
 このように考えてみると、いや魂ってそういうもんじゃないだろう、と思う方もいらっしゃるかと思います。それに対して、言葉は多義的だからと言ってしまっては、身も蓋もありませんし、そもそも間違っています。
 意味とは、対象が与えられた後についてくるものです。言葉の意味とは、事前に対象に与えられているのではなく、対象をどの文脈に埋め込んで、どのような履歴をその意味として解釈するか、という手順を踏むものなのです。それゆえに、認識されなければ、何者も無意味であると言っていいでしょう。逆に、対象として認識されてしまえば、何者も無意味ではありえません。予め人生の意味が与えられているのではなく、振る舞いの軌跡が人生の意味となるのです。

 つまり、想いは形にしなければ伝わりません。

 

 

 

 もっと軽率に二次創作していきましょう。よろしければ、皆様の魂の形も見せて頂けると幸いです。
 お付き合い頂き有難う御座いました。

 

※発表内容は、登壇者自身の調査による研究内容であり、個人の見解になります。さまざま存在する東方の解釈の一つとしてお楽しみください。

 

 

「女神転生」から、紺珠伝・天空璋・鬼形獣の3作品を紐解く 「東方Projectにおける魂の形」 おわり